悪
戯
なきみ B
電話から帰ってきたおれを出迎えたのは、すごく柔らかに笑うソラだった。
「おまた、せ……?」
「うん? どうした?」
「いや、なんでもない」
首を振って誤魔化す。
なんだ、さっきの。なんかおれの知ってるソラじゃないみたいで、一瞬、マジでドキッとした。
あんな大人っぽい顔するやつだったっけ。
上目で探るが、ソラは優雅にカフェオレを口に運ぶだけでこちらを見ない。
「って、それ、おれのカフェオレ! 勝手に飲むな」
「いいじゃん、カフェオレ飲みたくなったんだよ。ほら、間接ちゅーだぞい」
「『だぞい』ってなんだよ」
いつも通りに戻ったソラに、呆れのため息を吐きだす。少しほっとした。
テーブルに目をやり、ふと伝票がないことに気付く。
「あれ、もしかしてカオルさん、おれの分まで払ってくれたのか? 悪いことしたな。そんな義理ないのに」
「いいんじゃない? 人気ホストは金持ってますから」
「そうかもしれないけどさ。…………なあ、カオルさんって、ソラのなに?」
この質問を本当に問いかけたかったのは、カオルさんではなくソラ本人だ。
ソラはおれを『愛してる』と言ってくれる。それを疑う気はないけれど、カオルさんが特別なのは間違いない。
二人だけになって、ちゃんとした確認が欲しかった。
「行こうか、龍志」
でも、ソラは答えをはぐらかした。
立ち上がったソラを見上げ、悠然と立つ男前な姿におれはそれ以上の追及ができなかった。
なんか今日のソラ、男前度が五割増しなんだよな。
「はあ、勝てる気がしない」
「なにが?」
●●●
泊まりたいというソラの要望に答えて、夕飯の買い出しをしてから一人暮らしのおれの部屋へ行く。
夕飯のメニューはソラの希望でハンバーグだ。
「ふふん、龍志のハンバーグぅ」
デミグラスソースのたっぷりかかった、出来たてのハンバーグを前に変な歌を歌うソラ。
ソラは料理ができない。彼女、唯一の弱点であるが、決して欠点ではない。
なぜなら、ソラが料理のできないことを知るや、学内の女生徒たちが昼飯の献上にこぞって訪れるからだ。
おかげで昼飯代が毎度浮く、とソラは喜んでいる。
「なんか今日、お前の喰うとこばっか見てる気がする」
「そっかな? 私、太った?」
「思ってないこと言うな。鍛えてるんだろ?」
「……残念。太ったことにして食後の運動に、龍志を誘おうかと思ったのに」
「今の誘い文句だったのか!?」
太ったからセックスしようなんて、どんな誘い文句だ。
だが、にやりと笑うソラの顔を見れば、それが冗談だったことは訊くまでもない。
テレビの前においたローテーブルにハンバーグを並べ、二人でカーペットの上に座る。
元気よくあいさつして、ハンバーグに箸をつけるソラを横目見る。
きっとソラのなかでは、カオルさんの話は打ち切りになっているのだろう。
今、さらなる言及をしても答えてはくれないだろうし。
でも、確認すべきことはまだあった。
「お前さ」
「うん?」
頬にソースを付けたソラがこちらを向く。
それを親指で取ってやりながら、もう一つの疑問をぶつける。
「お前とカオルさん、……セックスしたことねぇだろ?」
やばいくらい心臓が波打っていた。
訊いてはいけないことのように思えた。だいたい、おれとしては元恋人の下事情は聞きたくない。
それでもおかしいと思ったんだ。だって、あの美青年ホストのカオルさんだぞ?
あんな人がソラに『不感症じゃねぇの?』なんて言ったり、ましてやセックスが下手そうには見えない。むしろおれよりも上手そうなんだからな!
カオルさんはソラの話していた元カレとあまりにも違いがありすぎる。
「ばれたか」
「へ?」
こんな緊張して訊いたのに、ソラはあっさりと指摘を認めた。
間の抜けた顔で見るおれを、ソラは悪戯のばれた子どものように肩をすくめる。
「ごめん。嘘ついた。カオルとは確かに恋人だったけど、それは『ごっこ』遊びみたいなものだから。龍志の言うとおり、セックスはしてません。キスはしたけどね」
「え、ちょっ、と、待って。……じゃあ、お前、あの時」
「初めてだったよ?」
「……ま、マジでか〜」
頭を抱えて、深々と息を吐きだした。
カオルさんの反応を見て、まさかと思ったが。
おれは好奇心でソラの『初めて』を奪ってしまったのだ。
「だって、龍志、初めてとか言ったら変な気、使うでしょ?」
「当たり前だろ! 初めてって大事だろ、特に女の子は!」
「そんなこと言ってたら、いつまで経っても龍志とできない。それに龍志、好きじゃん。『巨乳の淫乱っ子猫ちゃん』」
「そうだけど! …………待て。なんでそのタイトル知ってんの?」
ん? と首を傾げるソラに、おれの顔は真っ青になっていく。
おれは部屋の押し入れに目をやり、慌ててソラに視線を戻す。
「おま、お前! おれのAV、見たのかよ!?」
「え〜、だってあんなの隠してるうちに入らないし。DVDデッキに入れたままだったから、スイッチ付けたら流れたんですぅ」
「うそ。マジかよ。最悪」
いつのことかはわからないが、ソラはおれの秘蔵AVを見てしまったと。
自分の性的趣味がばれることほど痛いことはない。しかも、相手はソラだ。
おれのまわりだけ、どんよりと曇り空になった頃、ソラは早々と食事を終えた。
「ごちそうさま。今日も龍志くんの料理はおいしゅうございました。電話してから、お風呂に入りま〜す」
「……お好きにどうぞ」
ソラは食器を流しに浸けると、携帯を持ってベランダへ出た。
ベランダのガラス扉がぴしゃりと締まって、おれは深々とため息をつく。
秘蔵AVを見られたことも、性的趣味がもろばれになったことも痛いが、やっぱり重要なのはソラの『初めて』をなんの覚悟もなしに奪ってしまったことだ。
本人は気にしてないみたいに言うが、奪ってしまったおれはどうにもやりきれない。
だいたい、どうして『初めて』であることを黙ってたんだ?
カオルさんのことにしてもそうだ。あんな素敵な男性を偽ってまで、『最低な元カレ』だと言ったのはなんでだ?
「あ〜、ソラの考えることはわからん」
後ろに手をつき、天井を見上げて唸る。
左手でベランダの扉が開いた。どうやら電話は終わったらしい。
「……え」
見上げた顔に影が降りて、唇に柔らかいものが当たる。
それがソラの唇だと気付く前に、影は離れていった。
「え……え?」
完全な不意打ちに面食らった。
目線を水平に戻し、足音が去った方を見るのと、バスルームの扉が閉まるのはほぼ同時だった。
今のなんだ?
別にソラからキスしてくるなんて珍しくもないんだが、なんか今のはいつもと違った。
無表情にキスするなんて、ソラらしくない。
ソラと入れ替わりに、おれも風呂に入る。
すっかりキレイになって出てみてみれば、ソラはソファーに座って静かにテレビを見ている。
テレビに映るのは深夜枠のお笑い番組なのに、ソラはくすりとも笑わない。
キッチンの流しを見ると、明日洗おうと思っていた食器がキレイに片付いている。
「食器、洗ってくれたのか?」
「うん」
なんか生返事。
う〜ん、考え事でもしてんのか? 飯食ってる時はそうでもなかったよな。
おれは濡れた髪をタオルで拭いつつ、冷蔵庫を開けて水を取りだす。
ソラが悩んでいるなら、なにか言葉をかけてやりたいけれど、ソラの悩みをおれごときが解決できるとは思えない。
こういう時、気の利いたことができないのも頼りないよな。
カオルさんとかなら、もっといい態度取れるんだろうけど。
「もしさ、明日、世界が終わったら」
「へ?」
唐突にソラが変なことを言い出した。
間抜けな声を出る。ソラを見ると、テレビ画面から少しも目線を逸らしていない。
「違うか。もし、明日、世界が終わるってことを自分だけが知ってるとしたら……どうしたらいいんだろう」
「えっと、知らない振りしてる、とか?」
「……そっか」
会話はそこで途切れた。
ソラはおれの返事に不満も満足もしてないようだった。
何なんだよ。おれ、今のどう答えるべきだったんだ? なんか間違った?
ってか、なんだこれ。なんかのたとえ話か? それともどうでもいい感じの話?
「龍志」
「はい!」
突然、声を掛けられた予想以上にでかい声で返事してしまった。
情けなくて泣きたくなる。
「龍志、こっち来て」
ソラは自分の隣をポンポンと叩いておれを呼ぶ。
いつも思うけど、こういう構図って男女逆だよな。おれのポジションが女の子だったら、さぞ喜んで隣に行っただろう。
だが残念かな、今日のソラはこの構図に似合うだけの微笑を浮かべていない。
「あの、ソラ? どうかしたのか?」
「う〜ん」
隣に腰を下ろすと、ソラは唸るような声を出しておれの首に巻きついてくる。
怠慢な動きと首元に擦りつけられるソラの鼻先がくすぐったい。
おれが貸したシャツは少し大きく、彼女の首元からは鎖骨が見え、押しつけられた体からは柔らかい感触が伝わってくる。
え、なに、もう襲っていいの? おれ、誘われてる?
「そ、ソラさん?」
「薄っぺらい」
「は?」
「こうやって触れることでしか、きみへの愛情を表現できないなんて薄っぺらいよね。それでも触れずにはいられない。きみが私を許すことがたまらなく嬉しいんだ。つけこんでるだけってわかっていても、きみの熱を求めてしまう」
「そそそ、ソラ?」
ソラはやたら熱っぽいことばを並べ、おれの弱い耳元に色っぽい吐息をかける。
こんなんされて勃たないほうがおかしいだろ。ってか、今日はどうしたんだよ、ソラ。
おれの肩に一際大きなため息が下りて、ソラは動きを止めた。
「こんなとこばっかり、そっくりだ」
「ソラ?」
名前を呼ぶと、ソラの体が震えた気がした。
ソラは顔を上げ、にこりを笑う。
「龍志、今日はもう寝よっか」
そう言って、いつも通りに戻ったかに見えたソラ。
その夜、おれたちは本当にただ眠った。横向きに寝るくせのあるおれの背中に、ソラはくっ付いて離れなかった。
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