きみのらない私



〈あの人に抱かれてる時が一番、愛されてるって実感できるのよ。だから、私があの人を拒むなんてありえない〉

母の口癖だった。

事あるごとにそう言って、また咳き込む。
彼女が寝台から下りたところなど、数えるほどしか見たことがない。

まず第一に、夫婦の情事を10歳にもならない娘に吐露するべきじゃない。
第二に―――、

「〈一番、愛されてる〉じゃなくて、〈その時しか〉愛されてなかったんでしょ」

母親の墓前で、私が最後に吐き捨てたことば。
母は可哀そうな人だった。そして、最期の瞬間まであの男を愛していた。

私は8年経った今でも、理解できずにいる。


●●●



電話が切れた。
もうなにも聞こえない。龍志を怒らせた。当然だ。

怖かった。
私の〈家族〉に関わろうとする人間、それもあの龍志に対して、怒りを覚えることが怖かった。

龍志のメールが届く前に、電話が2本。
テンシちゃんの怒りの電話と、カオルからの謝罪と懸念の電話。

龍志と話している間も、私の頭のなかはカオルから教えられた、ある家族への懸念でいっぱいだった。
正直、龍志となにを話したかほとんど覚えていない。

そして今も、もう一度、龍志に電話しようという考えが浮かばない。

「ごめんね、龍志。愛してるんだ」

途切れてしまった液晶画面に額をつけても、もうつながらない。
背後で部屋のとびらがノックもなしに開く音がした。

「暗いですね。それとも、夜景を楽しむ余裕でもお有りで?」
「ノックしてって言ったでしょ。勝手に入ってこないで、レオン」

〈あの人〉の犬が部屋に入ってくる。
本社ビルの最上階に近いこのフロアは、〈あの人〉のプライベートルーム。私に与えられた部屋にカギはかからない。

大きなはめ込みのガラス窓から夜景が見える。その光に映される淡い金色の髪が、すぐ近くにやってくる。
レオンの手がむき出しの肩を滑る。体に巻いたバスタオルの端をいじるのが見えた。

「こんな格好では風邪をひきますよ。着替えを手伝ってさしあげましょうか」
「やめて」
「それとも、今、この肌に触れるのはあの低能そうな若者だけですか? あなたのような人が、あの程度の相手で満足しているとは思えない」
「満足してるわよ。少なくとも、あんたに触られる時のような嫌悪は感じない」

後ろから鎖骨に唇を落とされる。
相手の首筋を噛みちぎってやりたいのを耐える。オーデコロンのきつい香りが鼻をつく。

違う。こんなんじゃない。龍志はこんなにおいじゃない。

大きな手が腕を引っ張り、ベッドに押し倒される。器用にバスタオルを取り去った。
不敵に笑うブルーの瞳を視界の隅に追いやって、夜景の輝きに目をやる。

「いつごろでしたか? あなたが私の元に泣きついてきたのは。あなたはこう言った、〈私を汚して、レオン〉」
「……」
「ああ、そう。ちょうど、15歳を迎えた頃でしたか。可愛らしい、なにも知らない無垢な少女。いろいろ教えましたね。自慰の仕方、快楽のツボ、男の誘い方、それに……感じているように見せる演技も」
「違う。龍志と体を重ねるのは、本当に感じているからよ。あんたとは違う」

どうですかね。

レオンは口元を吊り上げ、私に馬乗りになると暗い部屋のなか、舐めまわすように見つめてくる。
なにも感じない、嫌悪以外はなにも。だが、その嫌悪すらこの男にとっては快楽。
だから、絶対にその姿を見せない。なにも感じない振りをする。

「15歳のあなたは、なぜ汚して欲しいなどと思ったのでしょう」
「知らない」
「カオルやテンシに近づきたかった? あの二人の体は私も驚くほどボロボロですものね。特にカオルは。私も一度、カオルと寝てみようとしましたが、あまりの姿に正直どん引きしましたよ」
「っ」

肉のぶつかる乾いた音がひびく。
むかつくくらい整ったレオンの白い頬に、3本の引っ掻き傷が残った。

「はっ、良く似合ってるわよ。変態の犬には」
「……凶暴な子猫だ」
「いっ、ぁ」

唐突に、喉を締め付けられる。細くなる息と圧迫される喉元の痛み。
体に力が入る。掴んでくる手を引っ掻くけれど、びくともしない。

レオンは無表情に私を見下ろす。

「痛いですか? 苦しいですか? あなたには優しくしてきましたよね。苦しみから快楽を引きだすことも、痛みを悦に変えることもしなかった。ただ美しい快感だけを教え込んだ。あなたが望んだことです」
「っ……かっ、はっ」
「でも残念ですが、カオルやテンシの体はこんなことでは満足しませんよ。カオルがどんな風にイクか知っていますか? 彼は手足を縛られ、体をえぐられ、あちこちから血を流した末に、喉を絞めつけられて、ようやくイクんですよ。あなたにそれができますか?」

無表情が崩れていく。世界のすべてを歪ませる表情。
これがレオンの笑み。すべてを支配したがる恍惚とした笑み。

何度、見ただろう。何度、思い出しただろう。嫌だ、戻りたくない、嫌なんだ。

「……カ、オル、くん」
「そう。あなたの助けたかった18歳の〈カオルくん〉は、どうなりました? お人形のように美しかった〈カオルくん〉は? だれよりも心の強かった〈テンちゃん〉は?」
「カオルくん、テンちゃん、……いやだ、たすけて」
「助けてほしかったのは、あの2人でしょう? でも、12歳のあなたは2人の苦難を見て見ぬ振りをして過ごした。2人は言いませんでしたか、〈ソラちゃん、助けて。苦しいよ〉」


「違う! 助けたんだ! カオルくんもテンちゃんも、あの悪いやつから守ったんだ!」


自分の叫び声に、はっと我に帰る。

首元の手はいつの間にか離れていた。涙で揺れる視界に、無表情に戻ったレオンが見える。
体にかかっていた負荷も、もうそこにはない。部屋のデスクの前に立って、レオンは感情の無い声で告げる。

「大学の資料はここに置いておきます。社長は少なくとも、一ヶ月後には答えが聞きたいそうです」
「……」
「それと、シャワーを浴び直した方がいいでしょう。風邪をひきますから」
「……出て行け」
「そのつもりです。今のあなたは、あの頃ほど魅力的ではない」

カギのかからない扉が重たく閉まった。

目元を抑えつけても、意味のない涙は止まらない。まぶたの裏が熱い。
涙を声には出したくなかった。こうやって痛いほど抑えつけておけば、いつかは止まる。



ようやく涙が止まった後、急に寒気を感じた。裸でベッドに寝転んだままだ。

「セイラのこと、訊きそびれた」

レオンの変態野郎に会ったら、問い詰めてやろうと思っていたこと。

うちの〈家族〉の下から2番目、可愛い中学3年の女の子。
彼女がこの一週間、まともな時間に帰ってこない。カオルが心配とともに電話で伝えてくれた。

心配だった。もしかしたら、なんて考えだしたらキリはない。
〈あの人〉やレオンは下の2人とは会わない、そういう約束になっている。
だが、あの変態がそんな約束を聞くだろうか?

セイラは、15歳になったばかりだった。

どうしてもかぶってしまう、私がバカだった年頃と。
あの時、レオンはとても優しくて、ひどく大人に見えた。なんでも許してくれると思えた。

「……バカみたい」

セイラはそんな子じゃない。
あの子は真面目で、勉強熱心で、家族のだれよりも冷静だ。
私みたいなバカをする子じゃないんだ。

起き上がってバスタオルを体に巻き、バスルームに湯を張りに行く。
脱衣所に置いてあるポシェットからタバコを取り出して、口に銜える。

喉を通って、肺へと入ってくるメンソールの香り。

目をつぶって吸い込み、ゆっくりと吐きだす。
そう言えば、タバコを教えたのもレオンだった。

……嫌なことは忘れよう。

脱衣所を出て、デスクに置かれた資料を手に取る。レオンが置いていった、大学の資料。
どれも名門校ばかり。すべてアメリカの大学だ。

「〈そろそろ日本も飽きただろ〉、か。勝手言ってくれる」

ことばを鵜呑みにしてはいけない。これは〈提案〉ではなく、〈命令〉。

〈あの人〉が私に、今の大学を止めてアメリカの大学に入り直せ、と言ったらその通りにする。
〈あの人〉が一週間、自分の仕事についてまわってみるといい、なんて言えばそうするしかない。
〈あの人〉がレオンと仲良くしなさい、と言ったら形だけでもそうみせる。

いつだって悪態付くのは忘れない。けど、逆らえない。〈あの人〉は恩人、そして悪人。

タバコを灰皿で軽く叩く。焼けた灰がぽろぽろと落ちる。
龍志に、秘密にしていることが4つある。

ひとつ、実はタバコを吸うこと。
ふたつ、前の彼女に振られるよう仕向けたのは私であること。
みっつ、1年後、龍志の前から姿を消すこと。
よっつ、―――。

「……本当は全然、気持ち良くないんだ。ごめんね、龍志」

灰皿に置いたタバコの火が、じゅっと消えた。
あふれた涙が灰皿のガラスに当たって跳ねる。

もう私は、あの頃からなにも感じない。

「それでも、それでも愛してる」


ねえ、あなたといられるのは、あと何ヶ月?




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