らないきみ C



廊下の方でガチャガチャと細かい陶器の鳴る音がする。
カオルさんが「ミナトかな」と呟いて、それがさっきの男の子だと知る。

ゆっくりした足取りの男の子が影になって障子に現れた時、彼の焦った声を聞いた。

「あ、テンシ」
「あれ? ミナト、こんな時間におかし食べるの? ソラちゃんに怒られるよ?」
「い、いや、あの」
「あ! もしかしてソラちゃん帰ってきてるの? もう早く言ってよ! ソラちゃん、おかえ…………だれ?」

いきおいよく開け離れた障子の向こうから、真っ赤っかの髪をした化粧の濃い美女が現れた。
満面の笑みだったそれは、おれと目を合わせた瞬間、鬼のような形相に変わる。

彼女の隣で、お盆をもった男の子が困った風に一歩下がる。
おれはただ愛想笑いをするしかなくて、一応、こんばんはと返しておく。

女性は腰まで伸びた真っ赤な髪を振り乱した。
おれの存在を通り越して、タバコを吹かすカオルさんをにらみつける。

「カオル、なにしてんのよ? なんで他人を家に入れてんの? っていうか、ここ、ソラちゃんの部屋なんですけど。わかってんの?」
「わかってるよ。彼はお嬢の大切な人。だから、お嬢の部屋に入れても問題ない」
「あるわよ! この家にはだれも入れちゃいけないの! この部屋には、ソラちゃんには、だれも触れちゃいけないの! あたしたち以外はだれも!」

鼓膜にびりびりと響く声で、赤髪の女性は怒鳴り散らした。
少年が廊下の端で待機し、カオルさんが平然とタバコを吸う前で、おれだけがビクビクと震えていた。

どうして、他の人たちは動じないんだ。すげえ怖いんですけど。

女性がひとしきり叫び終えて息を切らすと、ようやく屋敷は静かになる。
カオルさんはタバコを灰皿の底に押し付けて、火を消した。

「お前こそわかってんのか、テン?」
「なにを?」

ギロリとにらみつけたカオルさんの瞳に、おれはびくりと肩を震わせた。
その目はおれに向けられたものじゃないのに、殺気が十二分に伝わってくる。

お、おれの知ってる、カオルさんじゃない……。

「この家の家長は、お嬢だ。彼女の決めた人に対して、お前ごときが文句言えると思ってんの?」
「だって!」
「ガタガタうるせえんだよ、ガキ」
「な!」
「わかったらさっさと仕事行け。遅刻するぞ」

障子の木枠が女性の長い爪に締め付けられ、ギリギリと音を立てる。
赤い髪は逆立って、背中に炎をまとうような幻覚を見せる。

「もういいわよ! カオルの馬鹿! 性病でもうつされろ!」

捨て台詞を残して、大きな足音は去っていく。遠くで玄関のドアが乱暴に閉められた。

おれの肩から一気に力が抜ける。
座布団の上でへにゃりとしおれるおれの前に、緑茶の湯呑と和菓子の乗った小皿が置かれる。

男の子はなにごともなかったようにお茶を置いて、正座した膝にお盆を置くと、小さな手でカオルさんの頭をチョップする。

思わず、ぎょっと目を見開いた。さっきまでその筋の人みたく怒っていたカオルさんにそんなこと……。
しかし、予想に反して、カオルさんはうなだれたまま軽いチョップを受け止めた。

「カオル。へこたれるなら、喧嘩するなよな」
「……今のはテンが悪い」
「テンシも悪いけど、カオルもダメ。またソラがご飯食べなくなったらどうするんだよ? オレの飯が食えないソラなんてソラじゃないんだからな」
「……ごめん。テンが帰ってきたら謝る」
「よし。ったく、カオルもテンシもガキなんだから」

少年は謝るように念を押し、部屋を出て行こうと立ち上がる。
子どもみたいに拗ねたカオルさんが、ちらりと目を上げて少年を引きとめる。

「そういえば、ミナト、セイラはまだ帰ってないのか?」
「まだだよ。飯もまだなのに。カオルもちゃんと飯食えよ」

なんか、ものすごく大人に小学生だな。
めちゃくちゃ殺気を発していたカオルさんに説教するなんて。

それからのカオルさんは驚くほど、静かでぼんやりしたままだった。
新しいタバコに火をつけ、それを吸うでもなく口にくわえ、片膝を抱えてぼうっとしている。

おれは勧められるままに和菓子と緑茶を頂いて、早々に退散することにした。
ソラには会えなかったけど、なんだかいろいろと濃い内情を見てしまった気がする。

玄関まで見送ってくれたカオルさんは、少しだけいつもの大人な雰囲気を取り戻していた。

「いろいろごめんね。変なの見せてしまって」
「い、いえ。おれは全然、気にしてないんで。こっちこそすいません、勝手にお邪魔したせいでさっきの女性と」
「テンのこと? あれはいいんだ、いつもああだから。でも、今度どこかで会っちゃったときは全力で逃げてね。たぶん噛みつくから」
「はあ……」

そんなこんなで、おれの〈ソラの実家初訪問〉は幕を閉じた。



【ソラ お前の家族 なんだかすごいな】

暗い帰り道、思ったままをメールに乗せてソラに送った。
この一週間ばかり、メールに返事はなかったから今度もそのつもりだった。
音沙汰がなかった腹いせに、黙って実家へ行ったことで驚かせてやろうと思ったんだ。

しかし、意外にも一分後には電話の着信が鳴った。ソラからだ。

「もしもし?」
【龍志、家に来たんだって? テンシちゃんから電話あって知ったんだ。すごいキレてたよ】
「あー、……ごめん」

腹いせのつもりが、結局謝ってしまう。ソラの声に、おれは弱い。

彼女の声のトーンは明るかった。
電話に出たはいいが、また会社で会った時みたいに得体の知れない感じがしたらどうしようと思っていたから、少しほっとする。

やはり、ソラはソラだ。

【家に来たのは許してあげる。でも、私がいない時に来るなんて許せないなあ。そんなおもしろいこと、逃すなんてもったいない】
「ソラ、お前ね」
【はいはい、大変だったんでしょ? だいたい、想像つくからわかるよ。うん、ごめんね。だけどね、龍志、ひとつ約束して】
「なに?」
【あの家にはもう行かないで】

足が止まる。
電柱に取り付けられた街頭に、小さな虫がいくつも群がってうなっている。

拒絶された気がした。

ソラに対して、そんな風に思ったのは初めてだった。

「なん、で?」
【うーん、たぶんカオルも言ってたと思うけど、うちの家って難しいんだよね。いろいろと、龍志みたいな普通の家とは違うの。他の人が入るとね、その人がどんなに良い人でも混乱しちゃうから】

屋敷の玄関を出る時、カオルさんが言ったことばを思い出していた。
壁にもたれたカオルさんが思い出したように言ったこと。

―――「さっき、俺たちは血のつながり以上のものでつながってる、なんて格好つけて言ったけど、あれ嘘なんだ」
―――「うそ?」
―――「うん。俺たちが繋がってるのはね、……罪なんだよ。大きな、許されざる罪」

電話で相手の顔が見えないって言うのに、おれはずっと黙っていた。
わかったから。カオルさんも、ソラも、言いたいことは同じなんだって。

【龍志? 聞いてる?】
「……結局さ、〈立ち入るな〉ってことだろ? それ」
【え?】
「ソラもカオルさんもさ、おれみたいな部外者に立ち入って欲しくないってことじゃんか。血の繋がってない家族かなんか知らないけどさ、おれには全然わからない。なんでそんなに頑ななんだ? なんでそんなに嘘ばっかりつくんだよ? お前、なに隠してんだよ?」

ソラは長い間、答えなかった。
おれはずっと待っていた。

自分の望む答えを、待っていた。
「そんなことないよ」っていう答えを。
「龍志だけには心を開いてるから」なんてことばを。

【その通りだよ。立ち入って欲しくない。もし、龍志と家族をてんびんにかけるなら、私は迷わず家族を選ぶ。そういうことだよ】
「血も繋がってないのに?」
【つぐないだから。私はみんなにつぐなうために生きている】
「……そうかよ。じゃあ、好きにしろ」

電話を切った。
遠くで車のクラクションの音がする。チカチカと点滅する街灯がうざい。

おれはゆっくりとその場にしゃがみ込み、頭の後ろに手をやった。

……。

うわあああ、やっちまったああ! なんであんなこと言ったんだよ! 絶対に呆れられた!
どうしよう。月曜日に学校で会った時、どうするべきだ? とりあえず謝る? 謝罪文でも書くか?
いやいや、それよりも今すぐに電話して謝った方がいいかもしれない。さっきのは違うんだ、そう、酔ってたから。酒飲んで酔ってたから、違うからって。うわ、言い訳くさい。まず電話に出てくれるかも怪しいじゃねえか。メールか? メールで伝えるべきか?

【ごめん、ソラ、違うから。あんなこと思ってないから。口にしたこと、全部、デマだから。全部、ソラが正しいし、おれはなんとも思ってない。なんで会社で秘書してんのとか、あの家族どうなってんのとか、連絡くれよとか思ってないから。だから、頼むから許して】

「……」

打ち込まれた文章を見て、顔が引きつる。

「おれ、どんだけヘタレなんだよ」

そして、メールは送れなかった。




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