10年来の恋だから 「溺れてみろよ」
1.「溺れてみろよ」
書類整理ってやつは、どうしてこうも面倒なんだ。そのくせ、面倒だからと放っておけば机の上に山のような書類が積み重なって、主を潰し殺さんとしてくる。
俺は今週中に溜まった書類を黙々と処理しながら、もくもくとタバコをふかす。こんな乱暴な作業が許されるのも国語科準備室、つまり自分のテリトリーだからだ。
「それにしたって終わらねえ」
前髪をかき上げ、後ろに反りかえる。事務イスがキイと音を立てる。
外はもう夕日の光でオレンジ色だ。校庭では後片付けをする運動部員たちがのろのろと動いている。
平和な放課後をやぶるものなど何もなく、
「頼もー!」
ただし、廊下の端から全力疾走してくる女子高生をのぞいては。
俺は準備室のとびらを開き、息を切らせるそいつにタバコを口から外す。
「お断りだ。今、忙しい。絶賛、面会謝絶中」
「まあ、そういわずに。この可愛い女子高生アイドル、ちよちゃんに免じて」
「可愛さとアイドルの点で却下」
「ひどい。ひどいわ。雪くんがそんなひどい教師だったなんて、私信じたくない」
「じゃあ、挫折したままお帰り下さい」
一連のバカみたいなやりとりがあった後、とびらのところで床に座り込み、およよと泣き真似をしていたそいつは、なにを思ったかずるずると室内へ入るととびらを閉めた。
「おい、お前の位置はこっちじゃないぞ」
「もう遅いわ。私はあなたと合体するまでここを離れない」
「なぜ、お前が言うと、エロ単語より巨大なロボを思いだすのか。不思議だな」
女子高生は制服が汚れるのもかまわず床を四足歩行で進み、俺の事務机の下まで来る。なにをするのか興味もなくタバコをふかせば、整理していた書類の山にひらりと一枚の紙が落ちてくる。
目に入ったしわくちゃの用紙に、ぴくりと眉が動く。
「おい。これはいつの期限だ。いや、それはいい。……ここに並ぶ不細工な文字の意味はなんだ」
「私の愛が大きくすぎて読めないのね」
「お前の字が汚すぎて読めないんだよ。それとも、お前は俺と違う言語をあやつる人間だったのか。悪いが俺にもわかるように書きなおして来てくれ」
机の下でうずくまる頭の上に、用紙を払い戻す。俺はタバコを口に戻して、書類整理に戻った。とりあえず、この机に並ぶ書類だけでも今日中に片づけてしまいたい。
すると、今度は下方からずずっと鼻水をすするような音が聞こえる。
「私たち、こんなに近くにいるのに、ほんの少しのことばで愛を伝えることもできないのね。まるでロミオとジュリエットだわ。いいわ、あなたにもわかるようにこの口でしかと伝えましょう」
「ちょっと待て。今、耳栓するから」
俺の拒否反応もまったくとり合わず、そいつは落とした紙を手にデスクにあごを乗せる。二つの目とふくれた頬、下唇の厚い口がすぐ近くに現れる。
そして、放課後の廊下にまで響くんじゃないかという大きな声で紙に書かれた内容を読み上げ始めた。
「〈第一志望 雪くんのお嫁さん(婿入りでも可)〉。雪くん、長男だからやっぱり嫁入りがいいかな」
「帰れ。一生、実家に帰っていろ」
「〈第二志望 とりあえず、雪くん家の合いカギをプリーズ〉。雪くん、一人暮らししてから一回も家に上げてくれないってどうなの?」
「来るな。お前が入った後に死体の掃除屋呼ぶのが面倒だ」
「〈第三志望 雪くんに【俺に溺れてみろよ】と言わしめたい〉。あ、これはね、この前聞いた『乙女のための萌えボイス』CDに入ってた一押し台詞。ぜひとも雪くんの官能エロボイスで」
「もうすぐ冬だしな。プールは寒いだろうな」
「私泳げない。リアルに溺れる」
唇を尖らせ、いじけてみせる。そんな顔されたところで、これ以外の返答はない。
イスを回転させて秋の深まる窓の外を見る。タバコの煙を吐き、灰皿に灰を落とす。
「それ、なんの書類だよ」
「進路調査票です。私と雪くんの将来を考えるための書類でしょ?」
そばにあったプリントの束で、そいつの頭を叩く。痛い、と小さく抗議の声。
「たわけ。お前が無事に卒業できた後、変態道を歩まないための書類だよ。ふざけてないでまともに書け。お前、こんなくだらないこと書くために期限やぶって出しにきたのか」
「くだらなくないもん。現実的な進路だもん。私は雪くんのお嫁さんになるの」
まともに返してやれば、途端に子どもっぽくなる口調。だから、お前はガキなんだよ。
うつむく頭に、わざとわかりやすくため息をついてみせる。タバコは灰皿に押しつけた。
「それが全然、現実的じゃないことくらいわかってるだろ? お前は生徒で、俺は教師。七歳も離れてるし、お前は未成年だ。もっとわりに合った男見つけて、彼氏でもなんでも作れよ」
「私の王子様はずっと雪くんだけだもん」
「森山先生、だろ。田所」
「ちよだもん。名前で呼んでよ」
用は済んだと、新しいタバコに火を点ければ、そいつはすっくと立ち上がる。マンモスみたいな足音を響かせ、準備室のとびらへ歩いていく。やっと帰る気になったか。気付けば、空はオレンジから紫色に変わってる。まずい、このままだと残業になる。
小さなマンモスはとびらを開けると、振り返って吐き台詞。
「私はずっと雪くんだけに溺れてるんだからね。もう救命ボートが来たって遅いんだからね」
「進路調査票、明日までに出せよ」
バンッと派手な音を立ててとびらが閉まった。やっと静かになった空間に、長々とため息がこぼれる。
机の上にはいらなくなった馬鹿な進路調査票が落ちている。それを手に取り、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ放った。しかし、それは丸筒には入らず、縁にあたって床に落ちた。
「就職先、変えっかな」
口にしたことばはまったく現実的ではない。今の不景気で仕事場を選べる余裕なんてないし、我慢はあいつが卒業するまでの一年程度のことだ。だが、俺の精神は四月からこっち、すでに限界だった。
だいたい、あいつ――田所ちよの言う〈ずっと〉が長すぎた。まさか十年も想われるなんて誰が想像する?
あいつと会ったのは俺が中学二年の時、あっちがまだ七歳のがきんちょの頃だ。
あいつの兄貴と俺は中学からの腐れ縁で、わりと仲も良い。たまたま、兄貴の家に遊びに行った日、妹のあいつと出くわしたんだ。俺は二階にある兄貴の部屋から便所へ下りたとき、台所から聞こえる兄妹の会話をたまたま耳にした。
【ねえねえ、お兄ちゃん。あの人、きっと王子様よ】
顔を真っ赤にして言う七歳のガキのことば。中学二年の俺は照れ臭さと年上の威厳に、ほんの少し得意になった。目をきらきらさせて話しかけてくるガキがおもしろくて相手をしてやっていた。
そんな関係が、もう十年。
俺は二十四の大人になり、あいつは十七歳の女子高生になった。
しかも、たまたま欠員が出て急きょ決まった就職先が田所ちよの通う高校だったなんて。ある意味、兄貴との腐れ縁よりもねばねばとしつこい粘着性だ。
「王子様、ね」
おそらく、あいつの中で俺はテレビの向こうの芸能人と変わらない。手が届かないから追いかけたくなるだけで、現実的に俺と一生を共にしたいわけじゃない。
あいつの問題点は、自分の軽薄さに気付かない馬鹿さ加減と、俺に与える影響をガン無視するところ。
お前はいいさ、いつまでも芸能人のおっかけみたいに熱上げてりゃいいんだから。
でも、俺は、……十年も好きだのなんだの言われ続けた俺は、どうしろってんだよ。
「……溺れてんのは俺の方、か」
点けたばかりのタバコは、口をつけることなく灰になる。
(お題提供 : 空葬 - Aerial burial - / ヒトヒ様 「セリフ35」より)