10年来の恋だから 「触ってみれば?」
2.「触ってみれば?」
廊下の窓から見えるのは、枯れ葉の落ちる木ばかり。ここら辺には紅葉を見せる種類の木はないのだろうか。衣が落ちた木々はいっきに冬の到来を予見する。
ぼんやりと歩いていたら、後ろから左腕に軽い衝撃。
「あ?」
「森山センセー、どこ行くの?」
一人の女子生徒が開いた左腕に巻きついてくる。その後ろに、くすくす笑った二人の女子生徒。三年のギャル子たちだ。赴任早々から過剰なスキンシップで俺を困らせている。(おもに学年主任の機嫌をともない)
「はいはい、二年の教室ですよ。ほら、離れなさい」
「ええ〜、いやだあ。センセーと一緒に居たいのお」
間延びした舌っ足らずの声が耳元にまとわりつく。この手の女は十代でも二十代でも同じような性格をしてる。それにこうした態度がすべての男に通用すると思ってるんだ。まったく迷惑も良いところだ。
俺は適当に三年のギャル子を振りほどき、足を速める。
「お前らも授業だろ。さっさと教室へ戻りなさい」
「はあ〜い。またねえ、森山センセー」
けらけら笑って三人の女子生徒は去っていく。一難去ったことに、ほっと息をつく。
二年の教室へ向かいながら、そういえば、と考える。
そういえば、あいつはあんまりスキンシップしなくなったな。
俺に付きまとう十年来のストーカー、田所ちよの接触を思いだしてみるが、最近のあいつは過剰なスキンシップをしなくなった気がする。あいつが小学生の頃はよく体のあちこちに抱きつかれたものだが。今では手にすら触ってこない。
そんなどうでもいいことを考えながら、目的の二年C組の教室へ着いた。
C組は前の授業が体育だったのか、教室ではまだ数名の男子生徒が上半身裸ではしゃいでいた。いつものことだが、男子高校生ってのはどうも馬鹿をやりたがる。俺の時代だってそうだった。
さっさと着替えろ、と叫ぼうかと思った瞬間、目に入った光景に動きを止める。
「うお、こいつの腹見てみろよ。腹筋すげえ。さすがボクシング部」
「あったりまえよ。毎日どんだけパンチ食らってると思ってんだよ」
数名の男子が互いの腹筋がいかようなものかと比べ合いをしているようだ。それはいい。それはいいが、その輪っかの中に見知った顔がいるのがいけない。
「うわあ、すごーい。ちょっと触らせてよ。六つに割れてる腹筋なんてそうそうないよ。すごー」
やけに通りのいいあいつの声が聞こえて、その後に自慢げなボクシング部の男子の許可が続く。
見事に割れた腹筋の地肌を、あいつは無遠慮に触りまくって、純粋な感嘆を示す。だが、気付け。そのまわりは上半身裸の男子ばかり、触られた男子はにやにやといやらしい顔で笑ってやがる。
気付けば、俺は持っていた台帳で入り口の枠組みを思いっきり、ぶっ叩いていた。静まりかえる教室。
「……さっさと着替えろ。授業、始めるぞ」
男子生徒たちはいそいそと着替えを済ませ、関係のない生徒たちまでそそくさと席に戻る。肝心のあいつだけが俺の顔を見てきょとんとしていた。
その時間の授業は散々だった。進めるべき教科書のページは間違えるし、チョークは何本も折れた。生徒たちも俺のぴりぴりした雰囲気を感じとるのか、いつもよりずっと静かな授業になった。
終業のチャイムが鳴ると、誰もがほっと安どの息をつく。
「田所、あとで国語科準備室に来い」
「え、……あ、はい」
俺が教室を出ると、途端に生徒たちの話し声が増す。今日の俺は怖かっただの、いったい何が原因だのなんだのと。俺だってこの苛立ちの原因なんて知りたくもない。
それからの時間をずっとイライラしながら過ごして、昼休みなった時、準備室の扉が控えめにノックされる。
「どうぞ」
「おっじゃましまーす。どったの、雪くん?」
「座れ」
天然で馬鹿なこいつも、クラスメイトに忠告されてきたんだろう。いつもの底抜けなテンションはどこか作り物で、きょろきょろと見慣れた準備室を見渡し、古びたソファーに腰を下ろした。
「んー、なんか怒ってる? 進路票、ちゃんと出したでしょ? あ、もちろん最初のが本命だけどね」
「ああ。最初のは捨てたけどな」
「うえ、ひどっ! 後生大事にとっといてよ。結婚式のときのスライドショーで見せるんだから。…………あー、雪くんやっぱり怒ってる?」
いつもの調子で話しだしてもまったく乗ってこないどころか、眉間にしわを寄せたままの俺にさすがのこいつも思うところがあるらしい。
俺は腕を組んでソファーから遠い本棚にもたれた。
「なんで怒ってるかわかるか?」
「えっと、古文の小テストで三点取ったこと?」
「しかも百点満点のテストでな。でも違う」
「うーん、準備室で鼻歌うたってたの録画したこと?」
「お前、……なにしてくれてんだ。あとで消せ」
推理すればするほど、俺の機嫌を悪くしていく。あいつは首を九十度に曲げて降参を示した。
俺はため息をついて、タバコを吸おうと箱に手を伸ばすがもう一本も残っていない。あの授業からこっち、ずっと吸い続けたせいで今日の分が切れてしまった。思わず舌打ちする。
「お前、あれ止めろよ」
「へ?」
机の上の、書類の山から残りのタバコを探すふりをして、どさくさまぎれに言う。本当はもう買いに行かないとないことくらいわかってる。
「あれって?」
「異性との過度の接触」
「い、せ? 角?」
ほんの少し難しく言っただけで、馬鹿なこいつの脳味噌はついていかないらしい。目をぱちくりさせて、ことばになってない音を発する。
俺はないタバコを探すのを止め、ソファーに座るそいつを見る。
「男子の体とか、ベタベタ触るな。十七にもなってすることじゃない」
「べたべたって、ちょっと触っただけだよ? あれくらい変じゃないよね?」
「お前がどうとも思ってなくても、向こうはそうじゃない。盛りのついた男子高校生には、色気のないお前でも女に見えるんだよ」
「そんなこと言ったって……」
納得いかないとすぐに唇を尖らせる癖。つくづくガキだなって思う。
そんなやつでも、もう十七だ。なにも知らない純粋な子どものままじゃいられない。自分がどんなに幼いままでも、まわりまでそれに合わせてくれるとは限らない。
こいつもそろそろ、そういう意味での危機管理を覚えたほうがいい。
あいかわらず唇を突き出したままのあいつの前まで行って、腕を組んで仁王立ちする。
「じゃあお前は、俺がお前の腹、触ってもなんとも思わないわけだな」
「ふえ? わ、私のお腹をゆ、雪くんが? む、無理無理無理! そんなん耐えらんない」
慌てて立ち上がって俺から離れる。あいつの全力拒否に少しムッとする。
「ほお、同級生の男子はよくて、二十四のお兄さんは気持ちが悪いと。お前の言う、愛だの恋だのはそのていどのものか。なるほど、よーくわかった」
「だ、だって、だってさぁ……」
おろおろするこいつが余計に腹立って、壁際に追い込むともごもごとことばを濁す。
たぶん俺もなんだかんだと、いろんなことに苛立ってたんだ。こいつがどうでもいい男子の腹を触ったり、他の男に欲望の目で見られたり、俺にはめっきり触れなくなったくせに、全力拒否とは。
だけど、壁と俺の間にはさまれたこいつが、珍しく狙いもせずに上目遣いで見つめてきた時、今さらに気付いてしまう。
(あ、これってやばくね?)
「だってさ、雪くんに触られると変になるんだもん」
「気持ち悪いってこと?」
「ち、ちがうよ。そうじゃなくて、体温上がるっていうか、なんか……やらしい気分になっちゃうっていうか。昔はそんなことなかったのに」
うーうー唸りながら、その手はセーラー服の上着の裾をぎゅっと握りしめる。
忘れていた呼吸を再開しようと鼻から息を吸えば、鼻腔にかすかな花の香り。改めて、この距離がいろいろまずいことを知る。
「で、でも雪くんなら触っていいから。全然、嫌じゃないし。雪くんのこと、大好きだから。だから、その……」
さっさと離れようと身を動かせば、目の前の馬鹿は握っていた上着の裾をぐいっと持ち上げた。俺は思わずびくりと身を震わせる。
「っ」
「……触って、みれば?」
紺色の制服からむき出しになるのは、予想以上に白い肌。きゅっと引き締まったくびれと、小さなへそがスカートのところで見え隠れする。滑らかな肌の上には、ピンク色のブラのレースがかすかに見える。
当の本人は裾を持ち上げたまま、目をつぶってなにかに耐えていた。真っ赤になった耳元とか、白い肌とか、ピンクのレースとか、いろいろ目に悪いものが広がっていて―――。
突然、チャイムが鳴った。昼休みの終わりを告げる予鈴だ。
はっとなった俺は、馬鹿の上着を思いっきり引き下ろす。
「馬鹿が! 誰が触るか! 頭の悪いことするな!」
怒鳴り声を上げてから、その声がでかすぎること気付く。目の前で震えるこいつを知っても、もう遅い。
「じょ、冗談じゃん。そんな怒んなくたって。よ、喜ばないことくらいわかってるけど、そんな拒否られるとさすがのちよちゃんも傷付いちゃうぞ。なん、ちゃって」
にへりと笑うこいつの顔を見て、やばい、と思う。その変に崩れた笑みは、ガキの頃からこいつが泣きだす前兆だ。
案の定、笑った顔はすぐさまボロボロの泣き顔に変わった。
「ご、ごめん。そ、そんな怒ると思わなくて。ご、ごめ、なさい」
「あ」
しまったと思っても遅く、あいつは涙でいっぱいの目元を拭って、準備室を飛び出していた。
虚しく取り残された俺は、どうすりゃいい?
誰がどう考えてもあの場はああするしかなかった。いや、それ以前にどうして俺はあんなむきになったりしたんだ。あそこは抑えるべきところだろ。あいつがどこの誰となにしてたって、興味ないし知らぬ存ぜぬ、そうすべきじゃないのか。
あいつは十七歳の生徒で、俺は二十四で教師だ。越えてはいけない線がある。
十年間、どれだけ好意を向けられても答えるわけにはいかなかった。あいつはずっと可愛い妹分だったから。
それなのに、あいつときたら……。
「なんて、全部、言い訳だよな」
本当はあの白い肌に吸いついて俺の跡をつけまくって、細い腰を掴んで逃げられないようにしてしまいたい。あのピンク色のレースの下には、きっとあいつの胸の高鳴りに合わせて上下する白い双胸があってだな。
「……くそ、いい加減にしないと本気で襲うぞ」
吐きだした息が熱い。苛立ちまじりに呟いたことばには、少しも現実感がないのに。
結局、卑怯な俺は待っているんだ。あいつの方からこの一線を越えてくるのを。
数日後、あいつの過保護な兄貴から飲み会の誘いがきたのはいうまでもない。招集目的は説教に決まってる。あーあ、行きたくねえ。
(お題提供 : 空葬 - Aerial burial - / ヒトヒ様 「セリフ35」より)