そのに映るモノ 第5話-@




― side サキ


私が通う大川高校のあまり使われない校舎、つまり専門教室が密集した校舎には普段でも人影が少ない。
そのうえ、今日は一学期期末試験最終日。いつも以上に人はいない。


ザザアアアァァァァ


その校舎にある女子トイレに私はいる。もちろん、私以外は誰もいない。
洗面台のひとつには出しっぱなしの水が大きな音をたてて流れ落ちる。
白い手すりに手を置いた私の手も、流れる水しぶきが濡らしていく。
私の眼は、ただひたすら流れ出る水を見ていた。


ザザザアアアアァァァ


〈サキちゃん、すごいね! また、100点! すごいね!〉
〈そんなことないよ。メイは、どうだったの?〉
〈う〜ん。またね、点数悪かったの。どうしよう、お母さんに怒られるかな?〉
〈大丈夫だよ。メイ、頑張ったんでしょ?頑張ったのに、お母さん怒ったことあった?〉
〈……ん〜、ない! ないよ、サキちゃん! 良かったあ。頑張ったから、お母さん怒らないよね!〉
〈そうだね。……メイのことは絶対に怒らないよ〉


水が奏でる不規則な音のなか、昔むかしの古い記憶が聞こえてくる。
現実という言葉をはじめて意識し始めた、あのころ。


ザザザアアアアァァァ


〈どうしたの、メイ? こんな家の倉庫まで連れてきて。様子も少し変だし。熱でも出たの?〉
〈ううん、違うの。あのね、サキちゃん。あたし……〉
〈うん? どうしたの? メイ〉
〈……あのね。あたし、サトシと付き合うことになったの!〉
〈え? ……あ、そう。それは、お、おめでとう。うん、すごいじゃない。良かったね、メイ〉
〈うん! ほんと! あぁ〜、よかった。サキちゃんにいつ言おうがずっと迷ってたんだ。これですっきり! 応援してね。サキちゃん!〉
〈ええ、もちろん。応援してるわ、メイ。たった一人の姉妹だもの〉


自分の立ち位置をようやく理解したころ。
私は自分の生き方を思い知らされた。生きるためには、すべてを見過ごすしかない。
私は何に対しても意見してはいけない、自分の望みを言ってはならない。


ザザザアアアアァァァ


でも、本当は私だって……。


ザザザアアアアァァァ


〈サキ、よく考えてみろ。お前にだって選択肢はあるだろ。……お前が自分で選べ〉


嗅ぎなれた煙草の匂いと、煙。ゴミ箱のなかの銀色の指輪。


ザザザアアアアァァァ


「それ、楽しいのか?」
「……佐藤先輩」


ザザアアァァァ、キュキュ


下げていた頭をあげて、水道の蛇口をひねって止める。
女子トイレの入口に背中を預けた佐藤先輩がタバコを吸いながら、こちらを見ていた。
ふぅっと吐き出したタバコの煙が、無機質なトイレの壁をつたう。


「どうしたんですか?こんなところまで」
「いや、それ俺のセリフでもあるから。なにしてんの?こんなとこで。メイちゃん、探してたぜ」
「わかってますよ。さっきメールがきてましたから。今は、テスト勉強でちょっと疲れてたんで、1人で考え事してただけです」


濡れた手をハンカチで拭いて、タバコの煙を避けながら用のない女子トイレを出る。
でも、それは入口にいた佐藤先輩の長い腕に遮られた。目の前で赤い光が揺らめく。
ちらりと先輩の顔を見れば、窺うような先輩の顔が目に付いた。
私はこの眼に弱い。心の奥底まで見破られそうな強い意思のある眼。今まで誰にもそんな眼を向けられてことがない。


「なんですか?」
「ん〜? ……いや、戻ったんだな、と思ってさ」
「はい?」
「2週間前は、めそめそ泣いてただろ。今はこの俺に反抗的なオネエチャン。あの時ならちょっとは可愛げあったのにな。……ま、俺はそっちの方がいいと思うけど」
「……」


以前、メイやサトシたちと一緒に遊園地に行った日のことを言ってるんだろうか。
思わず気まずくて目をそらす。そしたら、また佐藤先輩にあの眼で顔をのぞかれる。


「……あ、あのときは、すみませんでした。お世話かけてしまって」
「お前、ほんっとなんでも謝るよな」
「すみません」


言われたそばから謝りの言葉を使ってしまう私に、先輩は苦笑しながら遮っていた腕をどけた。
今までの経験から身を固くしていた私は、ひとまず安心して肩の力を抜いた。




なんだろう。最近の私は自分でも不思議に思うくらいに変だと思う。
何年も前から築いてきた自分のスタイル。私が私であるために我慢してきたたくさんのこと、それが当然だと思っていたことがどんどん崩されていく感覚。
それもこれも全部、いま目の前にいる佐藤スグルという1人の人間のせいだということは、嫌でも気づく。
でも、それよりも私が信じられないでいるのが、そんな風に振り回されている今の現状がそんなに嫌じゃないこと。

佐藤先輩は、きっと今まで私が出会ったどんな人よりも、新しい私を引き出してくれる。
このまま、この人に流されていきたいと思っている。

でも……。


「あ〜、やっとうざったい試験も終わったしなぁ。うち、来るか?」
「えっ? あ、いえ、あの、今日はこれから用事があるんで」
「へぇ、用事ってなんだ? 珍しいじゃん」
「バイト……です」


私の前をのろのろと歩いていた先輩が、その単語にピクリと反応する。
ゆっくりと後ろを振り向いた先輩は、この一か月何度も見てきた、にやりとした笑顔だった。


「ほぉ、じゃあ、見に行くか。オネエチャンのバイト姿」
「……来るんですか?」
「そう。これ、決定事項な」
「……はい」


わかっている。
もし、このまま私が今までの私じゃなくなってしまえば、私が立っているこの場所は簡単に崩れてしまう。
この事実は私だけのことじゃない。メイやサトシ、家族やそれを取り巻くすべてに影響を与えるほどに。
きっと、取り返しがつかないほどに。だから、流されてはいけない。
どんなに望んだって、ここからは逃げられない。離れられない。

だって、これは私が牧原サキとして生まれたときからの、深い深いサダメだから。

佐藤先輩。あなたは本当に罪深い人です。





学校から歩いて10分ほどのところ。
マンションの1階にあるドラッグストアが私のバイト先だ。
といっても、そんなに繁盛してるわけでもなく、雇っているアルバイトは私を含めて2人だけ。
その原因は、主にこの店の店長にあると私は思っている。

先に見える角を曲がれば店につく。
道案内をしていた私は、店につく前に後ろを歩く佐藤先輩をちらりと振り向いた。


「あの、先輩」
「なに?」
「えっと、今から会う人を見ても、あんまり気を悪くしないでくださいね。そんなに悪い人じゃないんで」
「は?」


私の言っていることが、さっぱりわからないといった呆けた顔の佐藤先輩。
一応の忠告はした。これ以上の質問をされたくなくて、足早にその角を曲がった。
見えてきたドラッグストアは、なんの変哲もない、どこにでもありそうな緑を基調とした店。
ただ、その店先で医療メイカーの有名なカエルの置物に腰かけて、スポーツ新聞片手に煙草をふかす、若い男性さえいなければ。


「ただいま、お兄ちゃん」
「ん、おかえり、サキ」


スポーツ新聞紙から顔を上げずに、火のついた煙草の煙だけで応答する。
いつものことなので気にせず隣を通り過ぎ、開けっ放しのドアから店のなかに入って、後ろから来るはずの先輩を待っていると、ガコンと大きな音がした。
振り返った瞬間、佐藤先輩が店の床に盛大にこけているのが目に入った。


「え! ちょっ、先輩! 佐藤先輩! 大丈夫ですか?」
「う。いってぇ。なんだ?あたた、デコがいてぇ」
「うわっ! 先輩、おでこから血が出てますよ! 手当てしないと!」


佐藤先輩のおでこからタラりと流れる赤い血に、慌てて救急箱を取りに走ろうとした私を、店の入口の方から静かな声が聞こえてくる。


「必要ないね」


読んでいた新聞を無造作にたたみ、吸いかけのタバコをそばにある吸い殻入れに放り込む。
太陽の光を背に浴びて、彼はそこに立っていた。
彼は佐藤先輩の前までやってきて、顎をつかんでおでこの辺りをじろりと睨みつける。


「お、お兄ちゃん?」
「この程度、舐めときゃ治るさ。だいたい、他人の店で勝手にこけといて手当てまでしてもらおうっていうのは、調子良すぎだと思わないかい? ……なあ、少年」
「あぁ?」
「ここは薬局と町医者もかねてるんだよねぇ。傷の手当てするなら料金とることになるけど。どうするよ?」
「なら、いらねぇよ。そんなもん」


彼は、負けじと睨みつける佐藤先輩の顔を確認すると、満足したかのように手を離して、ふっと不敵に笑って見せた。
そのまま何がつぼに入ったのか、くくくっと笑いながら店の奥に消えていった。
店の入り口には、呆然としたまま残された私と佐藤先輩がいた。


「なんだったんだ、あいつ」
「えっと、すみません」


あとから聞いた話。
あのとき、佐藤先輩が転んだのは偶然ではなく、あの意味不明な彼がひょいと出した足に引っかけられたそうだ。



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