その瞳に映るモノ 第5話-A
― side スグル
ひとつ、議題をあげてみる。
女が変わるときとは、いつか。
人は日々刻々と変わっていくものだ。
なかでも女って生き物は未だに謎が多い。
いろんな女をとっかえひっかえしてきた俺でもわからないことだらけだ。
そんな女が変わるとき、それはいつ、どんなときで……なぜなのか。
どこか詩人めいたことを目の前で揺れる、牧原のエプロンのひもを見ながら考えていた。
黄色のエプロンを着た牧原が、薬やなんやらが並んだデカイ戸棚に在庫を並べていく。
戸棚は無駄に高いところまで商品が並んでおり、背伸びをしながらなんとか棚に入れようとしている。
牧原が爪先立ちになるとヒラヒラと揺れるエプロンのひもを、俺はレジ横のカウンター内に座って見ていた。
「なぁ、牧原」
「え? はい? なにか言いましたか、先輩?」
「お前、まえとなんか変わったか?」
「はい?」
振り返った牧原は、俺の質問にきょとんとした顔を見せる。
そうして天然そうな顔をしていると、そのまんま妹のメイちゃんそっくりだ。
その顔をメイちゃんそっくりだから、ということが牧原を魅力的だと感じる理由ではなくなったのはいつからだろう。
牧原サキは、出会ったころと何も変わっていないはずだ。
少なくとも俺はそう思っている。
「佐藤先輩、なんですか、それ?」
「自分に自信がなくて、なのに頑固で妹命のオネエチャン。俺は何も変わってないと思うけどな」
「あの、なんの話ですか?」
「もしかして、牧原。お前、叔父さんに俺とのこと言ったりした?」
「はあ? 言ってませんよ! ……い、言えるわけないじゃないですか。こんなところでそんな話しないでくださいよ」
商品のシャンプーを床に落とすほどの慌て方に、俺の中の可能性がひとつ消えた。
まぁ、しかし、いくら客も従業員も誰もいないからって、ドラッグストアでこんな話をしているのもおかしな話か。
俺がなぜ突然、こんな会話を持ち出したかというとだ。
それは数時間前に交わされた、牧原の叔父・桜小路ゼンとの会話がきっかけだった。
〈今度から他人の可愛い姪っ子に手ぇだすのは、俺に許可取ってからにしてもらおうか。……中途半端なことしやがったら、薬漬けにすっからよぉ。覚えとけ、ガキ〉
今思い出しても背筋の凍るセリフだ。
男が仮にも医者だってところが、セリフに現実味を出してるよな。
それよりも問題なのはその内容だ。あきらかに俺が牧原に手ぇ出してるのを知ってる風だった。
でも、牧原本人が桜小路に言ったわけではないらしい。
ということは、牧原の普段の様子を見て、薄々感づいていたというほうが正解だろうな。
「まぁ、そんなに慌てんなよ。お前の叔父さん、さっき出張診察とかで出て行ってしばらくは帰ってこないんだろ? 幸い客もいないし。しっかし、この店は客こねぇな」
「そうですけど。誰に聞かれてるかわからないところで、そういう話したくないんです。学校じゃないんですから」
牧原はそう言って、今とりかかっていた戸棚の在庫整理を終えて、反対側の戸棚に移動した。
今度は背中じゃなくて、正面の牧原の顔が見える位置になる。
アルバイトをしている彼女は意外と普通だった。
気弱いイメージと頑固な態度が焼き付いている俺的には、普通にバイトしている彼女は結構新鮮だったりする。
「それで、さっきの話、どういう意味なんですか?」
「あれ? この話したくねぇんじゃねぇの?」
「や、その……き、気になるじゃないですか。そんな変な質問されたら」
黙ったまま、じぃっと牧原の顔を見てやると、その視線に気づいた彼女は一瞬で目をそらす。
ほら、やっぱり以前となにも変わっていない牧原じゃないか。
じっとりと探るような視線を外してやると、牧原は途端に安心したようにホッと息をつく。
「いやな、お前の叔父さんによ。お前に手ぇだしてんじゃねぇ、みたいなこと言われてさ。ああ、これはバレてるな、と思ったわけだ」
バサバサバサッ
俺が話し終わると同時に派手な雑音がしたもんだから、音がしたほうを見ると牧原が固まったままこちらを見ていた。
その両手に収まっていたであろう商品が床に散らばっている。
ちょうどそこは食品の戸棚で、床には板チョコが数枚、その上にペットボトルの水が乗っかっていた。
ああ、あれは確実にチョコレートが割れちまってるな。
「おい、大丈夫か?」
ピクリとも動かない牧原に、少しは心配して声をかけてやる。
そこでようやくパチリと瞬きをした。開いたままだった口がおずおずと動き出す。
「おいっ、大丈夫かよ?」
「い、言ったんですか? お兄ちゃんに」
「は? なにを?」
「だ、だから、私と先輩の……こと、です」
その目は信じられないものを見たような色をしていた。
おい、それって俺がアイツにわざわざ自分から喋ったと思ってるのか?
冗談じゃない。なんで俺から「あなたの姪っ子さんを脅して無理やり抱いてますよぉ」なんて言わなくてはいけないのだ。
「はあ? 言ってねぇよ、俺は! 向こうが勝手に言ってきたんだ。今度から手ぇ出すときは許可取れ、とかなんとか。今度からってことは、今までに手ぇ出してたことも知ってるってことだろ? 牧原こそ、なんかヘマしたんじゃねぇのか?」
「ヘ、ヘマってなんですか? わ、私は絶対にバレちゃいけないと思って!」
「わっかんねぇぞ? お前、無表情に見えて、ふとした瞬間ボロ出てるしな。それに、すぐ泣く。〈もう、いや! 無理矢理犯されちゃったの、おにいちゃ〜ん!〉とか言って泣いてすがったんじゃねぇの?」
「なっ! そんなことしてませんよ! あのとき泣いたのだって、先輩が」
「あ? 俺のせいかよ? それはちょっとひどいんじゃねぇの?」
いつの間にか、お互いに息が切れるまで言い合っていた。
俺はカウンターから乗り出していたし、牧原は戸棚からカウンターのそばまで回ってきてまで弁解していた。
その距離は数時間までキスしようとしていた位置だ。
それなのに今はひどく睨みあっているときている。
ま、牧原の顔が真っ赤だということはさっきと一緒だけど。
「ねぇ、サキねえちゃん。これ食べていいの?」
「「え?」」
声だけが聞こえる。それは、幼くてどこか舌足らずな話し方だった。
誰もいないと思っていた店内で聞こえた突然の声に、思わず牧原と驚き声が重なる。
俺は一瞬、牧原のあの叔父さんが帰って来たのか思ったが、それにしては幼すぎる声だ。
「ねぇー、サキねえちゃん、食べていい?」
そして、軽快なかけ足とともにそれは戸棚の陰からやってきた。
それは黄色い帽子をかぶり小学校の制服を着た、小さな男の子だった。
牧原はその子供を見ると、「あっ」と小さな声を上げる。
「ヒサシ! そんなところにいたの? い、いつから?」
「うん? さっきからいたよぉ? ねぇ、それよりこれ食べていい? 割れちゃってるからいいよね?」
3度くり返した言葉の意味を、ヒサシと呼ばれた子供が手にしているグニャリと曲がった板チョコを見て、ようやく理解した。
それは、牧原がさっき驚いて落としたチョコレート。
曲がってしまって商品にならなくなったチョコレートを目ざとく見つけてきたわけだ。
なかなか悪知恵の働くガキだな、コイツ。
「うわ、こんなに割れちゃったの?どうしよ。もう商品には出来ないよね。……う〜ん、いいよ。ヒサシにあげる。でも、ひとつだけだよ。鼻血が出ちゃうから」
「やったっ! ありがとう、サキねえちゃん!」
「どういたしまして。あっ、良かったら先輩も食べます? ……先輩?」
そう言って、ヒサシがさらに持って来た数枚のチョコレートを俺にも差し出す。
俺はそれをムスッとしたまま受け取らなかった。
別にさっきの言い合いについてまだ続けたいわけじゃない。
それ以上に気にいらない光景が目の前に広がっているのに、普通に受け取るほうがおかしいだろ。
「……なんだ、その顔」
「え? なにがですか?」
「なんでそんな……ぉなんだ」
「え? すみません、よく聞こえなくて」
無警戒に顔を近づけてくる牧原に、一瞬イラッとして舌打ちをする。
その態度に俺の機嫌が本気で悪くなっているのにやっと感づいたのか、牧原はいつもの申し訳なさそうな顔をした。
でも、絶対に俺が怒っている理由はわかっていないって顔でもあった。
「あの、ほんとに、どうして怒ってるんですか?」
「はあ? お前な! お前が! ……へ、ヘンな顔してるからだ!」
「ヘンな顔、ですか?」
そう。コイツのヒサシって子供に向けた顔が今まで見たことがないような笑顔で。
メイちゃんや頭山サトシにだって笑ったりするが、あれはどこか無理してる。
それなのにさっきの笑顔はマジで笑っていやがった。
そんな自然な笑顔は初めて見た。
それが、……それがほんの少し可愛いと思ったなんて、絶対言えるか!
「ちっ」
自分でも言いようのないイライラに襲われ、子供っぽい言動をしてしまったことに目を合わせていられなくなった。
今更ながら、牧原を盗られたような気がしていることに嫌でも気が付いてしまった。
これじゃ、まるっきりお気に入りのオモチャを盗られた子供と同じだ。
第一、牧原に対してそんな感情を抱いていたに驚きだ。
そのうえ、胸の中にはまだもやもやとした感情が漂っているときたもんだ。
これは当分、目を合わせられそうにない。
「ねぇねぇ、おにいちゃん。チョコレート食べないの?」
「あ?」
牧原にそっぽを向いていた俺の視界に、小さな頭が入りこんでくる。
それは、先ほどからチョコレートを頬張っている少年・ヒサシだった。
ヒサシはいつの間にやら俺が座っているカウンターの内側まで回り込んで、俺の隣に置いてあった丸椅子に腰かけていた。
「あ、ヒサシ! チョコレート触った手で、先輩の服を引っ張っちゃダメだよ!」
「は〜い!」
良い返事を返したヒサシだが、ヤツの左手はすでに俺の制服の上着のすそをギュッと握っている。
もちろん、制服には茶色いシミができ、そこから異様なまでに甘ったるい匂いを発している。
「マジかよ。一着しかねぇのに。だいたい、なんでガキがこんなところに居るんだよ? まさか、牧原の?」
本心ではなかったかが、日頃そういう行為をしている相手としては、「そういうこと」もあり得るのではないかと疑ってしまう。
牧原は潔癖症に見えて淫乱だし、最近じゃ俺との行為も満更でもなさそうだ。
だが、その仮説は彼女の否定によって壊される。
「ち、ちがいますよ! ヒサシは」
「僕はね、サキねえちゃんの旦那さんだよ!」
「……は?」
フリーズ。
幼い少年の一言に、俺も牧原も硬直した。
当の本人といえば、俺たちが固まっていることに気づきもせず、自分の発言に満足そうに最後のチョコレートを口に放り込んだ。
なんだって?旦那?牧原の?え、なに?牧原ってこんなショタ好きだったのか?
いやいや、まさか。牧原は確か、頭山サトシが好きなんだろ?
「ヒ、ヒサシ! ややこしくなるから、今そんなこと言っちゃダメだって!」
「え〜、だって本当のことでしょ? サキねえちゃんは、僕のお嫁さんだもん」
「それはそのぉ、だからね」
頬を膨らませるヒサシ。一歩も譲ろうとしない。
なんでもいいが、牧原。お前、ちゃんと否定しろよ。
別に俺だって小学生のガキと本気でそういう関係だとは思っていないが。……思っていない、たぶん。
それでも、一応、そこははっきりと俺にもわかるように否定しろよ。
俺のイライラがまた復活しだしたころ、タイミング悪く、さらなる鬱陶しくてややこしいヤツが帰って来た。
「おぅ、ただいま帰ったよぉ。って、あれ? まだいたのかい、やんちゃ君は」
「いちゃ悪いかよ?」
「悪いねぇ、すごく悪い。ていうか、それくらい言わないとわからないかな?」
「くっ」
牧原の叔父で面倒な性格の桜小路ゼンが、ドラッグストアの自動扉から悠々とご帰還なさった。
現れて早々の悪態に、面と向かって言い返せば2倍も3倍も返される。
一番、被害が少ない方法は、黙っておくことしかないらしい。
しかし、俺にとっては最悪な敵でも、今の牧原にとっては最高の救世主に見えるらしい。
「お兄ちゃん、おかえりなさい! どうだった、診察は無事に済んだ?」
「うん、たいしたことなかった。ヒサシもちゃんと店番してたかい?」
「うん! ちゃんとしてたよぉ、ゼンにいちゃん!」
さっき食べ終えたチョコレートを口端につけたヒサシの頭を、桜小路がそっと撫でる。
その顔は意外にも普通の笑顔だ。
それを見守る牧原を入れた彼ら3人を見ているとまるで本当の家族みたいで、また胸のもやもやが広がっていった。
「サキ、お前そろそろバイト終わりだろ? 夕飯食べてくか?」
「あ、ううん。今日は帰る。佐藤先輩も待たせてるし」
「あ〜、なに、一緒に帰るの? ふぅ〜ん」
無駄に伸長がでかいうえ、無駄に長い首を捻らせてヤツはこちらをじっとりとした目線で見やる。
明らかに疑いを込めた目線だ。
うるさい、だいたいそれ以外の目的で牧原のバイトが終わるのを、この俺が待っているはずないだろ。
「な、なんだよ」
「べっつにぃ〜。サキ、おくり狼されないように気をつけろよ。最近、変質者も多いしね」
「えっ、お兄ちゃん?」
「誰が変質者だ!」
そんな感じで、桜小路ゼンと同じ空間にほんの少しの間でも居たくなかった俺は、牧原を急かしに急かして逃げるようにドラッグストアを後にした。
帰宅の路をとぼとぼと歩いていた俺は、俺の数歩後ろを歩く牧原をこっそりと盗み見ながら考え事をしていた。
本当に牧原サキは変わってしまったのだろうか?
俺の認識する牧原は、頑固で我慢強くて妹命。自分のことは二の次だ。
それでいてどこか涙もろくて、寂しがりやで、それなのにそのことに気が付いていない。
そんなヤツだ。
しかし今日の牧原は、俺が今までに見たことのない様子ばかりだったことを思い出す。
桜小路ゼンには、甘えたように。
ヒサシには、本当の笑顔を。
そういえば、頭山サトシといるときは切ないような微笑みを送っていた。
どれも俺が今まで見たことがない顔。
だったら、俺には?
俺には一体どんな顔をしているだろう?
いつもビクビクして怖がって、目なんかなかなか合わせない。
なのに妹のことや叔父のことになるとムキになって怒ってくる。
時々、小さく微笑んだりするけれど、あんなの誰にでも見せる顔だ。
ああ、そういえば。してるときは、たまに目が合うな。
目が合うと中がギュッと締まる。その目はすぐに逸らされてしまうけれど。
俺はその瞬間が、結構好きだったりする。
そんなことを考えていたら、途端にしたくなってきた。
もう一度、後ろをちらりと見て、そこに牧原がいることを確認する。
最近、牧原のことを考える回数は増えているのに、それはいつも続かない。
もし、続いてしまえば答えが出てしまうような気がしているのだ。
その答えってのは、答えちゃいけないことなのではないだろうか?
そんなことばかり考えている。