その瞳に映るモノ 第6話-@
― side サキ
佐藤先輩はすごい人だ。
運動神経も良くて、成績も良い。見た目も嫌味にならないカッコよさがある。
いつ見かけても多くの友人に囲まれているのも、佐藤先輩の気遣いも出来て周りを飽きさせない巧みな話術にあるんだとも思う。
先輩には言ったことがないけれど、実は先輩の事は前々から知っていた。
先輩に……あの空き教室で出会う前から。
佐藤先輩はなにかと噂になりやすい人で、その噂は良いものから悪いものまであったけれど、時たま見かける先輩の楽しそうな笑顔を見れば、悪い噂が先輩を羨んだ人の嫉妬からきているものだというのもなんとなくわかった。
私が聞く噂のほとんどは、流行りごとに鋭いメイが興奮気味に話すことばかりだったけれど。
だからなんとなく、話したことのない佐藤先輩を完璧な人間なんだと思い込んでいた。
それが私の勝手なイメージだということはわかっていたけれど、そのイメージは今こうして先輩の近くに居る今でも消えずにいる。
まさか、完璧であるはずの佐藤先輩が弱音を吐くことなど、ううん、弱点があるなんてありえないと思っていた。
今日までは……。
「あの、佐藤先輩。ここって……どこなんでしょう?」
私のバイト先を見たいと言った佐藤先輩を、私の叔父でバイトの雇い主でもある桜小路ゼンに会わせた。
性格に少々難のある叔父のことである。先輩には気分の悪い思いをさせるに違いない。
そう予想はしていたけれど、予想以上に機嫌を損ねてしまった先輩の数歩後ろを歩きながら家路についていると、曲がる必要のない路地で急に佐藤先輩は私の腕を掴んだ。
あまりの早業に訳がわからない私を余所に、佐藤先輩はずいずいと見知らぬ道を進んで行き、それからある1つの建物の中に入って行った。
なんだかそこは、ピンク色のカラフルな色彩で囲まれた日本とは思えないような建物で。
私がそれがどこかを理解する前に、先輩は掴んだ腕をそのままに建物の中に入って行ってしまう。
「セ、センパイ?あの、ここって……」
「ラブホ」
「ぇ……」
私の前を相変わらず腕を掴んだまま、どんどん歩いていく先輩からあっさりと返ってきた答えに思わず身を固くした。
ら、らぶほ? って、ラブホテル? 所謂、そういうことをする場所、でしょ? えっと、な、なんで?
自分が今いる場所がどういう所なのか理解してしまうと、さっきまできょろきょろと周りを眺めていた自分が途端に恥ずかしくなり頬が赤くなる。
そんな場所でも平然とした顔で、私にはわからない画面の操作をして手慣れた感じに鍵を手にし、廊下を歩いていく先輩はやっぱりすごい。
目的の部屋までたどり着き、ドアの鍵を開ける表情にも冷静さが見える。
やっぱりこういうところには慣れているんだろうか。
無意識に浮かび上がった考えに、なぜか胸元がちりりと焼ける。
先輩を取り巻く噂の中に女性関係が多かったのは言うまでもない。
そんな先輩がどうして今、私をこんなところに連れてくるのだろう。
「入れよ」
「ぁ、えっと」
「今更帰るとかなしだぜ」
私の瞳を覗き込むようにして低い声で言う。
反射的に合ってしまった目に驚いた。
てっきりいつもの意地悪な顔をしていると思っていたのに、実際はなんだかとても悲しげな顔をしていた。
そんな顔されたら、帰れるわけ、ないじゃないですか……。
言い返してこない私を肯定ととったのか、先輩は私の腕を引いて部屋の中に連れていく。
後ろで重い扉が勝手に閉まる音がやけに大きく聞こえた。
部屋の中は私が想像していた、『そういう場所』よりもずっとシンプルな作りになっていた。
派手な感じはなく、ただベッドがあるだけ。それはそれでここでの目的を明確に表しているようで自然と肌が熱くなる。
「シャワー、浴びる?」
「ぇ……えと、あの……私」
ずっと掴まれていた手が離れて、私はようやく部屋の真ん中で取り残されたように棒立ちになる。
ベッドに腰を下ろした先輩が、今までに聞いたことのないような優しげな声で話しかける。
それなのに、表情は何かを我慢してるような悲しげなままで、そのギャップにどう対処すべきか反応に困ってしまう。
先輩のそんな顔も、そんな声も……今まで見たことない。
佐藤先輩……今、なに考えてるんですか?
「……」
「……」
私も先輩も、なにも言わなかった。
今日の先輩は、なんだか変だ。こんな風に静かで、寂しげな先輩なんていつもの先輩じゃない。
いつもだったら、言い淀む私に痺れを切らした先輩がさっさと先に進めるのに、今日の先輩は黙りこんで目線を空中に遊ばせるだけで動かない。
いつもだったら、私がどんなに戸惑っても自分のやりたいことを勝手にやらせて、整った口元をニヒルにあげてみせるのに。
あれ? 『いつもの先輩』ってなに?
ホテルの部屋の空調の音だけがかすかに聞こえる空間で、私の脳裏に疑問が浮かぶ。
『いつもだったら』って、まるで私が佐藤先輩の『いつも』を知ってるみたいな言い方。
一ヶ月前に関わり始めたばかりなのに、なに考えてるんだ、私。
身体だけの関係なのに……なに、思いあがってるんだ……私。
ブルルル……ブルルル……
「っ!……」
突然、聞こえた音と制服のポケットから感じた振動に、ビクリと身体を震わせた。
スカートのポケットに入れていた携帯電話が鳴ったのだ。
手を滑らせながら慌てて携帯電話を取り出し、着信を確認する前に通話ボタンを押す。
バイト先に何か忘れものでもしただろうか、と最初に思いたった相手は叔父の顔だったけれど、聞こえてきた声は彼よりのはるかにトーンが高かった。
『あっ、サキちゃん? もうバイト終わった?』
「ぁ、メイ?」
私がメイの名前を口に出すと、空中に漂わせていた先輩の視線がじろりとこちらに向けられる。
私では先輩の目がなにを思っているのか予想することは出来ない。
ただただ、瞬きもせずにこちらを見つめている。思わず溜まっていた唾を飲み込んだ。
『今、家にサトシが遊びに来てて、せっかくだからお寿司とろうかってなってね。サキちゃんも早く帰ってこないかなって、サトシと心配してたの。もうすぐお寿司も届くと思うんだけど、サキちゃんもう帰ってこれそう?』
「えと、いま……その」
『なんだか雨も降りそうだし、早く帰って来なよ。サキちゃん、今日は傘持って行ってないでしょ? さっきまで晴れてたのにどうしたのかな。変なお天気だね』
「ぅ、うん。そうだね」
今おかれている現状には全く不似合いな明るいメイの声。
これだけこの部屋が静かでメイの声が高ければ、きっと電話口の声も先輩に聞こえてしまっているだろう。
それでも先輩はピクリとも動かずに、ただ見つめているだけ。
私はいつもと違う先輩の目に見つめられることが耐えきれなくなり、先輩に背を向けて通話を続けた。
『今日のお寿司は特上なんだって。大トロあるかなぁ? サキちゃんは、いくらが好きでしょ? きっとおいしいお寿司いっぱい食べられるよ? サトシがいるから、少し多めに頼んでくれたの』
「そ、う……それは、良かった、ね」
『うん。だからサキちゃんも早く帰ってきて』
メイからの催促に言葉が詰まる。この状況でどうやって帰ればいいんだろう。
今日の佐藤先輩はいつも以上に、帰りを言いだしにくい。
と、背中越しに人の気配を感じた。この場にいるのは佐藤先輩だけだ。
先輩? なんで音もたてないで後ろに? なんだか、怖い。後ろ、振り向けない。
「ぁ……ぁの……」
「今日は帰れないって、言え」
「ぇ……」
思った以上に近くから聞こえた先輩の声に、背筋がぞくりとする。
低く唸るような音が、情事の際に私をあざける声を思い出させて、知らずと息が漏れる。
帰れない、ってどういうこと?
緊張と焦りで靄がかかった頭では、先輩の言っていることの真意まで把握することが出来ない。
それでも先輩は私に言葉を植えつける。
「メイちゃんに言え。今夜は叔父さんの所に泊まるから、帰らないって」
「で、でも、私……ぁっ」
思わず振り返ってしまったのがいけなかった。
唇が重なるくらい近くにある先輩の顔。それでも閉じられない目が私をじっと見ている。
怖いと思うのに、駄目だと思うのに、……目が離せない。
『サキちゃ〜ん? 聞いてる?』
電話越しに聞こえるメイの声もほとんど耳に入ってこない。
私はなにも言えずに、なにも出来ずに、なにも考えずに、先輩の瞳だけを見つめていた。
「言え」
ただ一言、紡がれる言葉にもう何もかもどうでもよくなった。
だから、このとき私が口にした言葉なんて、私は覚えていない。
「ごめん、メイ。今日、……帰れない」