その瞳に映るモノ 第6話-A
― side サキ
電話口のメイに対して私が断りの言葉を告げると、先輩は満足したようにバスルームへと消えて行った。
数秒間の緊張から解かれた私は、力の抜けた身体でその場に座り込んでしまう。
それから数分間、メイからの質問攻めにしどろもどろで答えつつ、結局、今日は叔父の家に泊まるという返答で終わらせた。
日頃からバイトが遅くなるとそのまま叔父の家に泊まることがあったため、それほど変に思われることはなかったと思う。
ただ、私の態度が明らかに挙動不審だったのが気になったのだろう。
普段は天然な性格をしているくせに、こういう時だけは妙に鋭くなる妹に冷や汗をかかされる。
握りしめすぎて熱くなった携帯電話の電源を切ってしまい、立ちあがって近くのサイドテーブルにそっと置く。
そのまま力尽きたように、ベッドの端へ腰を下ろした。
「……帰らないって、どうするのよ」
ふと零れ出た独り言が、部屋に虚しく響く。
薄い壁を隔てたバスルームからシャワーの水音が聞こえてきて、どうあってもこの場にいるのが私一人ではないことを自覚させられる。
今日の佐藤先輩は、なんだか変だ。
強引なのはいつものことだけど、今日の先輩は私に命令する時も、その顔は気乗りじゃないと言っているように見えた。
本当はこんなこと言いたくないのに無理して意地を張っているような気がして、何て反応を返せばいいのかわからなくなる。
「んな、あからさまに後悔してますって顔しなくてもいいんじゃね?」
「……佐藤先輩」
バスルームから出てきた先輩は、ゆったりとしたバスローブを身に付けていた。
映画やドラマでしか見たことがない光景。目のやり場に困る。
滴る水分ごと前髪をかき上げる仕草や、冷蔵庫から取り出した水を飲む姿はどれも初めて見る先輩ばかりで。
ふいに目が合えば、首を傾げられる。
「なに? 見惚れてんの?」
「っ……」
「いや、違うな。オネエチャンは今、自己嫌悪中なんだよな? 大切な妹に嘘ついて、自分は妹が懐いてる先輩とラブホテルなんかにご宿泊。そりゃあ、自分を責めたくなる気持ちもわかるぜ」
にやりと口元を上げる先輩は、いつも通りふざけて私をからかっているだけのようにも見えた。
でも、……あぁ、どうしてこんなこと気付いてしまうんだろう。
先輩、目が笑ってないですよ。
「先輩が言わせたんじゃないですか」
「へぇ、そう。じゃあ、今からでも帰れば? 家に帰れなくたってお前には優しい叔父さんがいるんだから、本当にそっちへ泊まればいい。ドアはいつでも開いてるぜ?」
「……なんで、そんなこと」
先輩は私が座るベッドの反対側に背を向けて座る。
背後から大きな溜め息が聞こえて、肩がびくりと反応する。
「今日の、先輩。ちょっと……おかしい、ですよ」
「……おかしいのは牧原の方だろ?」
「え?」
予想外の返答に驚いて振り返ると、切なげに笑う先輩がそこにいた。
「おかしいのはお前だよ。叔父相手に我が儘言ったり、小学生相手に笑ったり。いつもは周囲の反応にビクビクして、妹の影に隠れて自分はいない存在だって言ってるくせに。この世で一番不幸です、みたいな顔してるくせに。今日のお前のどこにそんな要素があった? 信頼できる大人がいて、懐いてくれる近所の子供もいて、なにより帰りを心配してくれる妹がいる」
「そ、それは……」
「お前、なんか勘違いしてね? この世の全員も好かれることが幸せで、たった数人にしか好かれないことが不幸だと思ってんじゃねぇの? お前なんかよりも不幸な奴なんて山ほどいんだよ。お前はただ、不幸に浸る自分が可愛いだけだ。自分からは何にも行動しないくせに、全部まわりのせいにしてるだけだ」
「…………」
底知れない黒の、心底真面目な瞳が私を見返す。
「不幸、はき違えてんじゃねぇよ」
何も言えなかった。だって、その通りだ、と思ったから。
佐藤先輩はいつも正しい。
私なんかよりずっといろんなことを知っていて、私なんかよりも私のことをよく理解している。
私はただ甘えているだけなんだ、この現状に。
自分からは何もしない。ただじっと蹲って「不幸だ不幸だ」と嘆くだけ。
唐突に現れた佐藤先輩にまるで救世主のように憧れて、先輩なら私を助けてくれるってどこかで期待していた。
私自身が変わらなきゃ、何も変わらないのに。
先輩はわかってたんだ。私が先輩にまで甘えていることを。
そんな私を先輩が面倒だと感じてもおかしくない。
「いつもみたいに謝らねぇんだな」
「……すみ、ません」
「別に謝ってほしいから言ったわけじゃねぇよ」
「……は、ぃ」
自然と頭は下がり、先輩の目をまともに見ることができない。
きっと先輩は今までずっとこんな私にイライラしていたんだろう。
それなのに私は何も気がつかず、それどころか優しくしてくれる先輩に浸けこんでさえいた。
私……、本当にダメだな。
「くそっ、ほんっとダメだな」
「っ!……ご、ごめんなさい……」
舌打ちと苛立ちによって呟かれる言葉。
それはスイッチのように私の中で鳴り響いて、閉じ込めていた感情がこみあげてくる。
もう、先輩の傍に、いられないんだ……。
最初に浮かびあがってきた思いが、当たり前のように涙を流させる。
こんな姑息で意地の悪い私に、遊びでも一緒にいることが面倒になった先輩なら、いつでも私を突き離せる。
先輩が私と一緒にいる理由なんてないし、……私が先輩を引きとめる術もない。
そこまで考えたところで、自分の考えに涙が止まってしまうほど驚いた。
私、先輩と一緒にいたいの?
もともと私は、先輩がメイを口説くまでの遊び相手であって、撮られた写真を盾に脅されていただけだ。
そんな私が先輩の傍にいられないことを悲しんだ?
深く考えずに自然と出てきた心が、それを『嫌だ』と感じた?
どうして?
思いがけない自分の思考に呆然としていると、それに気づかない先輩がもどかしそうに否定する。
「あぁ、違う違う! そうじゃねぇよ! お前がダメなんじゃなくて、だな。……その、なんだ。今のは自分に対する独り言であって、お前に対してじゃねぇし。だいたい、こんな説教臭いことがしたかったわけじゃねぇんだよ」
「ぇ? それは、どういう」
否定の言葉に顔を上げる。
そこにあった佐藤先輩の顔にはさっきまでの張り詰めるような厳しさはなく、自分でも言いたいことが上手く言葉にできないというような、もどかしさで溢れていた。
口を開けては閉じ、開けては閉じを繰り返し、出てこない言葉に唸っている。
苦しそうにする先輩の表情も、きっと何もできないダメな私がさせているんだ。
自分からは何もできないくせに、一人前に他人の言葉に傷ついたりする私を傷つけないように言葉を選んでくれているように見えた。
「すみません。私が情けないばっかりに、先輩に辛いことを言わせてしまって。本当なら私が自分で気付かなきゃいけないのに、私があまりにも」
「あ〜、違うっつの! お前、俺が言いたいこと十分の一もわかってねぇ! 俺はお前の性格をどうこう言ってるわけじゃなくてだな」
「でも、佐藤先輩の言ってることは正しいです。いつだって先輩は正しいですよ」
「〜〜〜〜っ。……お前、ちょっと黙れ」
不意に腕を引かれて、先輩の低い声が私の声を奪う。
驚いて目を見開く。眉間にしわを寄せて薄く開いた目から鋭い瞳を光らせる先輩を見た時、唇をふさがれていることに気がついた。
「んん…ふっ…ぅ………せん、ぱ……ん」
「黙れって」
口元で囁かれて吐息がかかる。
再び唇をふさがれると今度は先輩の舌が入りこんできて、口付けはずっと深いものになる。
それは私の言葉を奪うだけにしては、あまりにも深すぎる。
身体の力が抜けていく。腕を引かれた状態では、先輩に凭れかかりそうになるのを耐えることも難しい。
頭の中にはふわふわと白い靄がかかったように何も考えられなくなる。
「ふぅん……んん、はっ」
ようやく離された唇でも、すぐに言葉を発することはできなかった。
先輩はゆっくりと私の腕を離し、静まりかえった空気を振り払うように自身の髪をかき分ける。
「あ〜、なんだ。その、さっき言ったことは本心じゃないから。俺は牧原が不幸の意味もわかってない奴だとは思ってない」
「そんなっ! 私は本当に先輩の言った通りの人間です!」
「だから、もういいっての! ……その話は、もういいから」
「じゃあ、先輩は何を……」
何を言おうとしていたんですか?
最後まで言うまでもなく、先輩にだって私の問いたい言葉はわかっているようだった。
わかっているからこそ言葉にできない。そんな雰囲気が先輩からは感じ取れる。
先輩はしばらく考えてから大きく深呼吸すると、私に対して真面目な顔でこう言った。
「お前、俺のことどう思ってんの?」
「え?」
今の話の流れで、どこからそんな質問が出てきたのか。
唐突な問いに腑抜けた返事をする私に、それでも先輩は至極真面目だった。
「俺に対して、何を思ってる?」
未だに薄い靄がかかる頭をなんとか動かし、先輩の言葉を反復してその意味を考える。
そう言えば、こんなこと前にも訊かれたことがあったような。
確か、あれはメイたちと一緒に遊園地に行った時、観覧車の中で先輩に訊かれた。
あの時もまともな回答なんて出来なくて、佐藤先輩に呆れられて終わった。
今は……今は、なんて答えればいいんだろう?
「わ、たしは、その……」
言葉が何も思いつかない。何を言っても先輩の気を悪くしそうで、何も言えない。
どうしてだろう。あの時はすぐに答えられたのに。わからないって答えられたのに。今だって、同じように答えればいいのに。
……どうして、何も言えないの?
口籠る私に痺れを切らした先輩は、「じゃあ」と切り出した。
「じゃあ、質問変える。牧原はなんで俺に付いてくるんだ? なんで俺が好き勝手にすることを許してる?」
私には質問の意味がまったく分からなくて、いよいよ首を傾げた。
私が佐藤先輩と一緒にいるのは、ただ私が勝手にそうしているだけだ。
先輩と一緒にいると少しずつでも自分が変わっていくような気がして、先輩みたいになれる気がして。
そんな身勝手な理由で先輩の後ろに付いていってる、考えるだけでも卑怯な人間のすることだ。
佐藤先輩が今日みたいに私と一緒に行動してくれるのは、ただの先輩の気まぐれだろう。
私が許可を出すかどうかに関わらず、先輩はいつも好きなようにしている。
それについて私が口を出す権利はないはずだ。
首を傾げて明らかに質問の意味を理解していない私の様子に、深い溜め息が返ってくる。
「今の質問がなんで訊かれてるのかわかってないよな。それともそんなの答えるまでもないってか?」
「ぇっと、その」
「そうだよな。お前は俺に写真で脅されてるから従ってるだけだよな。それ以外に俺の言うとおりにする意味もないし、俺と一緒にいる道理もないよな」
「え、先輩?」
またひとつ、大きく息を吐く音。
だけど、先輩から感じられる雰囲気からは冷たさが消えていた。
髪の毛に手を入れ無造作にかき乱す姿には、どこか吹っ切れたような先輩の心情が反映されているようで。
一息ついた佐藤先輩はおもむろに立ち上がり、テーブルの上に置いてあった鞄から自分の携帯電話を取り出した。
静かな部屋には携帯電話を操作する電子音だけが聞こえる。
素早く操作を済ますと、私の視界に先輩の携帯の液晶画面が飛び込んできた。
「これ、覚えてるか?」
「っ……」
覚えているも何も、液晶画面に映っていたのは今着ている制服を乱された私の姿。
そう。佐藤先輩と初めて出会った空き教室で、最初に撮られた写真だった。
一瞬にして、自分の顔が強張るのがわかる。
どうしようもなく目の前に存在する現実が、私と先輩の関係を明確に示していた。
そうだ。私、先輩に脅されていたんだ。
改めて、その事実を突き付けられると写真ごと、この現実から目を背けたくなる。
だけど先輩の手に顎を掴まれ、物理的に目を逸らすことも出来ない。
「これ、よく覚えとけ。お前はこの写真で脅されてた」
「っ……」
「これがあるから、お前は俺に服従する。こんなんがあるから、お前は俺の事これっぽっちも考えねぇんだ。だから……」
携帯を掴む先輩の指が、携帯電話のボタンを迷いなく押す。
液晶画面を再度見せられ、そこに映る文字に目を見張る。
『この画像をすべて消去しますか?』
「ぇ……」
間違いじゃないか。信じられない文字の羅列に、疑い交じりの目線を先輩に向ける。
返ってくるのは力強い意志を表す、断固とした眼差しだけ。
本気だということを静かに物語っている。
そして、ボタンはゆっくりと押された。
『YES』
なんの音もなく画像はきれいさっぱり消え、白い画面だけが残った。
短い沈黙が部屋の空気に混じる。私にはそれでもまだ信じられなかった。
「これで……、これでお前は自由だ。俺がお前を脅す理由もなくなった。好きにしろ」
「っ……」
すきにしろ?
好きにしろって、なに? どういう意味? なんで佐藤先輩はそんなこと言うの? どうして、私に……。
わからなかった。何もわからなかった。考えなきゃいけないと思っているのに、頭がついていかない。
どうしてそんな泣きそうな顔するんですか?