そのに映るモノ 第7話-A




― side サキ


小学一年生の時、はじめてテストで100点をとった。
ごく簡単なテストだったから、クラスには100点を取った子が大勢いた。
それでも嬉しくて嬉しくて、私はそれを持って母親のところへ飛んで帰った。

「母さん、見て! テストで100点、取ったよ!」

その瞬間の母親の顔を、私は一生忘れない。

三桁の数字を見るや、彼女の顔はひきつって見たこともない怒りをあらわにした。
それから、私が広げたテスト用紙をひったくるとビリビリに引き裂いたのだ。

その時、母親がなにを言ったのか覚えていない。
きっと、その顔と散らばったテストの紙きれで頭がいっぱいだったから。

ただひどく怒られたことだけは覚えている。
同じテストで、妹のメイは26点を取った。


●●●



期末試験の結果が三位だった。

いつもより二つも順位が落ちた。テスト勉強に身が入っていなかったから当然だ。全部、私が悪い。
この順位を持って家に帰りたくなかった。きっと先に帰ったメイがいつものごとく母親に報告しているだろうから。

案の定、家に着くなり、玄関口で待っていた母親に仏壇のある和室へ連れて行かれた。
母親と二人、時計の音だけがやけに響く。

「期末試験、三位だったらしいわね」
「すみません」
「おかしいわね。いつもは一位ばかりとってくるのに。どうしたのかしら?」
「……すみません」

母親の顔は変にひくつき、笑っているようにも見えた。

良い成績をとっても喜ばれないと知ったのはいつだったろう。
それに気付いた時にはもうすでに、世間体への影響から成績を落とすことはできなくなっていた。

テストで良い点をとれば母親にしかられ、手を抜けば世間の印象を壊してしまう。
どちらも母親の機嫌を損ねることでしかない。

「わかってると思うけど、二度と許されない失態よ。あなたは必死になって一番をとるしかないの。それくらいしか取り柄がないんだから」
「はい」
「今日は夕飯抜きよ。押し入れ、自分で行けるわね」
「……はい」

仏壇の横にある押し入れを開けて、その下へ入る。
乱暴にふすまが閉められると、開けられないようにつっかえ棒が取り付けられる。

おそらく朝まで開かないだろう。いや、明日は学校にも行けるかどうか。

一畳ほどの暗く狭い空間で体を丸める。ここでの居住まいもすっかり慣れてしまった。
遠くこもってメイの声が聞こえる。母親が私の体調不良を説明するのも慣れたものだ。

目を閉じて、眠れない夜になにをしようか考える。

そういえば、今日も佐藤先輩からメールが来ているだろうか。
でも、携帯が入ったかばんは母親が二階の自室へ持って行ってしまった。今日は返信もできない。

いつも楽しみにしている、あの人からのメール。
佐藤先輩の日常をほんの少しでも共有させてもえたようで嬉しくてしかたない。
それなのに、ああしたメールにどう返事をすればいいのかわからなくて悩んだ挙句、いつも決まり文句しか送れない。

今日はそのことで佐藤先輩に怒られた気がする。
どんな返事をすればいいんだろう。どうすれば先輩は喜んでくれる?
先輩を前にするといつもしどろもどろになってしまう。テストのようにはいかない。

「ふふ」

佐藤先輩から送られた今までのメールを思い返すと笑みが出た。
今晩はひとつひとつに返事を書こう。決して送ることはないけれど、頭の中で返事を書こう。

そうすれば、そのうち朝が来る。


●●●



バタバタと物音がして目が覚めた。
いつの間にか寝てしまったらしい。壁に押し付けた頬が痛い。

「サキちゃん、大丈夫? 早く治ってね。お母さん、行ってきます」

メイの声がする。おそらく二階の私の部屋に向かって言ったのだろう。

彼女は気付いていないけど、私の部屋だけ外側からカギがかけられる。
妹が勝手に入って、その部屋に姉がいないことを気付かせないためだ。

玄関のドアが閉まって、メイが学校へ出かけて行く。
どうやら今日、私は学校を欠席するらしい。どんなに成績が良くても皆勤賞だけはとれたことがない。

それからまた数時間が経った。

さすがに息苦しくなってきた。それにトイレにも行きたい。
昨日の夜から水分を入れていないから耐えた方だけど、そろそろ限界だ。

「うう……、はっ」

息をついた時、和室の引き戸が開く音がした。
つっかえ棒が外され、ふすまが開けられる。眩しさの前に学生鞄が飛んでくる。

「お友だちが来るの。今から学校に行きなさい」
「……はい」

母親はそう言って出て行った。幸い制服のままだったから、このまま出掛ければいい。
トイレに行きたかったけど、ぐずぐずしていると母親の機嫌を損ねる。近くの公園まで我慢しよう。


●●●



学校に着いたはいいけど、体調がよくない。頭がぐらぐらする。
廊下をふざけて走る男子生徒を見て、昼休みであることに気付く。

「そっか。夜からなにも食べてないから」

軽いめまいはそのせいだろう。でも、今はなにも食べたくなかった。
教室へ入った私に、最初に気付いたのはサトシだった。

「サキ」
「あ、サキちゃん! どうしたの? もう頭痛いの治ったの?」

立ち上がったサトシに、メイが振り返って笑顔を見せる。
私が仮病への心配にもう大丈夫だと伝えると、メイは安心したように笑う。

サトシはずっと怖い顔をしているけれど。

サトシと私は同じクラスだから、メイが遊びに来ていたのだろう。いつものことだ。
私が自分の席にカバンを置きに行くと、二人は一緒になってついてきた。
できることなら二人きりの時間を邪魔したくないけど、突き放すことはできない。

「心配したんだからね。昨日もずっと寝込んじゃってるし。サキちゃん、体弱いんだから無理しちゃだめだよ」
「心配かけてごめんね、メイ。でも大丈夫だから。サトシも、ね」
「……サキ、本当になんともないんだな?」

険しい顔つきのサトシは苦手だ。あなたがそんな顔をするとメイまで不思議に思ってしまう。
だから、私はいつも大丈夫だよって言って、無理にでも笑わなきゃいけない。

私が席に着くと、メイは前の席に座る。彼女が勝手に座って怒る人はいない。
カバンから筆記用具を取りだす。ノートと教科書はすべて学校に置いてある。家で入れ替えることができないと困るからだ。

私が昼からの授業の予習を始めようとすると、メイがうんざりしたように息をつく。

「サキちゃん、また勉強?」
「うん。昨日は予習できなかったから。それに、また勉強がんばらないと。……順位、落としちゃったし」
「落としたっていっても、一位から三位だよ? 三位なんてすごいじゃない。あたしなんてまた補習だもん」
「メイはいつも頑張ってるよ。大丈夫、そのうちちゃんと成果が出るよ」

いつもの慰めを口にしても、メイはしょぼくれて机に突っ伏す。
うちの学校の補習は確かに面倒らしい。あまりのことにサトシがメイに合わせて赤点をとってあげたこともあった。

今度もサトシがメイの頭を撫でて慰める。私が予習に戻ると、メイがため息まじりに呟いた。

「あーあ、あたしもサキちゃんみたいに頭が良かったらいいのに」

意識の外で、―――なにかが弾けた。

「……だったら、今すぐにでも代わってあげようか?」

自分でも驚くくらい低い声だった。
え? と呆けるメイに、駄目だと思っているのに声が止まらない。

「そんなに代わって欲しいなら今すぐにだってあげるよ。こんな頭なんか必要ない。メイが三位をとったらお母さんだって喜ぶよ、きっと。だってメイだもん。私が0点とったらあの人は喜ぶかな? ああ、きっとそう。私をなじる口実ができたってきっと飛び上がって喜んでくれる。私を追いだす口実にもなるんだもん。それとも非行にでも走ればいい? お酒飲んでタバコ吸って暴力沙汰起こせばいい? それとも売春でもする? 私そういうことだって平気で出来ちゃうんだよ。メイは知らないよね。だって隠してたもん。メイはずっとお母さんやお父さんやサトシに守られて、温室の中で育ったんだもん。そんなこと知ってるはずないよね。サトシは知ってた? 私が本当はどうしようもない、ろくでなしだってこと。本当は大事なメイの傍にいていいような人間じゃないってこと。サトシがメイを守るために最優先でしなきゃいけないのは、私を消すことだよ。知らないなら教えてあげる。―――私はあなたたちが、大っ嫌いだった!」

昼休みの教室が静まりかえる。誰もなにもしゃべらなかった。
隣を見た。怒りに震えるサトシの目が私を見る。
正面を見た。座ったまま、ぐずぐずと泣き崩れるメイがいる。

どれも正しい反応だった。これが本来の私に向けられる視線だ。

それに気付いた瞬間、最後の砦が音を立てて崩れ落ちた。

「あ、…………わ、たし、違うの。違う、こんな……、こんな」
「サキ。たとえ、サキでも言って良いことと悪いことがある。どうしてそんなこと言うんだ」
「ち、違うの、サトシ。私、こんなこと思ってない。ほんの少しでも、本当に、全然……」

私はサトシにすがりついて弁解した。サトシの目は明確な敵意と失望で私を見ていた。
メイは手で顔を覆って泣き、私を見ようとしない。

間違った。

私は間違ったんだ。全部、この瞬間、すべてを間違った。
こんな時、どうすればいい? 失敗したらどうすればいい?

私はふらふらと立ち上がった。

「ご、ごめん。ごめんなさい。違うの。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめ―――」

自分が今、なにをしているのかもわからなくなった。
足や腰が痛かったから、机やイスにぶつけたんだろう。
でも、それ以外はなにもわからなくて誰の声も聞こえない。

気付いたら、訳の分からないことを大きな声で叫んでいた。

―――助けて、誰か助けて。

心の叫びは誰にも届かないこと、私は知ってる。






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