そのに映るモノ 第7話-B




― side スグル


桜小路がいきおいよく教室の扉を開いても、俺はそこにある状況が飲み込めなかった。
俺の気持ちを落ち着かせるためにも順を追って説明しよう。

まずそこは牧原のクラスだった。
昼休みの終わりも近い時間、教室には牧原とメイちゃんと頭山サトシがいた。 最初に目に入ったのは、頭山がイスにしなだれかかるメイちゃんを支えている姿。
二人は驚きと困惑に瞳を震わせ、メイちゃんは自分の一人の力では座ることもままならない。
頭山はそんなメイちゃんを両手でしかと支え、目の前の状況にまぶたを開き見ている。

俺は二人の視線の先にあるものへ目を向けた。

この位置からは桜小路の白衣の背中が見える。
先に教室へ飛び込んだ桜小路は、真っ先に教室の後ろにうずくまっているものへ駆け寄ったのだ。

そう。
頭を抱え、目を見開き、意味のないことばを繰り返す、―――発狂した牧原サキに。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

小さな声がくりかえし謝罪を告げる。
かき抱いた頭をぐしゃぐしゃと乱し、目は飛びださんばかりに開かれ、口は謝ることを止めない。

そこにいたのは、俺の知る牧原じゃなかった。
そして、それは決して俺が知りたかった牧原でもない。

俺は無意識に後ろへ足が下がるのを止められなかった。
廊下の壁が背中に当たって、はっとなる。

教室のなかでは桜小路がなんのためらいもなく、その震える体を大きな腕で抱きしめていた。

「サキ、大丈夫だよ、サキ。お前はなにも悪くないから。なにも悪いことなんてしてないよ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、全部、私が悪い。私がいるから! 私が生きてるから!」
「そんなことないよ。サキは生きていいんだよ。さあ、少し落ち着こう。ちょっとチクッてするけど大丈夫だからな。兄ちゃんがいるからな」

牧原の体を抱きしめて、落ち着くように背中を擦る。
いつの間に出してきたのか、カバンから取りだした簡易な注射器を牧原のまくった腕に打ち込む。

牧原は一瞬、びくっとした後、目を閉じる。大粒の涙がポロリとこぼれた。

それからしばらく唸っていた牧原は、桜小路の肩に顔をうずめて静かになる。
小さな寝息が聞こえてきて、どうやら気を失ったらしいことがうかがえた。

俺はその一連の出来事を、ただ壁に張りついて見ているしかなかった。
今ほど、自分の存在がちっぽけに感じたことはない。

だって俺、今日は牧原にメールの返信に文句を言うために来たんだぜ?
なのに、どうやったらこんな事態になるんだよ。

「ぜ、善ちゃん。サキちゃん、どうなっちゃったの?」

桜小路が眠ってしまった牧原の体を両手に抱き上げる。
呆然としていたメイちゃんが不安そうに問うてくる。

「ん? う〜ん、ちょっと説明するのは難しいけど、とりあえずは大丈夫だから。メイは心配しなくていいよ」
「で、でも! サキちゃん、いつもと違って! なんかいつもと違ってて、あんなのこといつもは言わないのに……」

双子の妹であるメイちゃんでさえ、牧原の異常は受け入れがたいものだったらしい。
どうしてそうなってしまったのか、事態の全容もわかっていない俺にはなんの理解もできない。

桜小路は明らかに偽物の笑みでメイちゃんをなだめ、混乱する彼女を頭山にまかせると教室をでた。
廊下の壁に張りつき動きを失っている俺の前を通る。

「覚悟があるならついて来い」
「っ」

覚悟ってなんだ。なにに対して俺は覚悟を決めなきゃいけない?
保健室へ向かう男の背中と、そこから見えるだらりと垂れた牧原の手足が、俺をすくませる。

もし、奴についていけば、これ以上の恐ろしい思いをするかもしれない。

それでも、なにも知らないよりはずっとましだった。

俺は震える足を引っ叩いて、桜小路の後を追った。


●●●



保健医は桜小路が事情を話すと席を外した。
医者である桜小路がいれば、多少のことは問題ないのだろう。

保健室の白いベッドに横たわった牧原は、呼吸もわからないくらい静かに眠っていた。

「大丈夫、なのかよ?」

青白い顔をのぞき込んで、その無事を確認する声はうわずる。
自分でもなにを恐れているのかわからない。ただ、なにかが怖かった。

桜小路はベッドの横にあるイスに座り、牧原の手を握る。
その様子は驚くほど冷静で、それがよけいに俺をイライラさせる。

「心配ない。鎮静剤を打っただけだ。少ししたら目も覚める。いつもの発作だ」
「いつものって! いつも……、こんなことになってんのかよ」
「俺とサキ以外は知らないことだ。いつもは精神が不安定になりそうだったら、うちに来いと言ってあった。俺も気をつけてはいたが……。メイの前で発作を起こしたのは初めてだ」

それがなにを意味するか、俺にもわかった。

牧原はずっと妹のメイちゃんにみじめな自分を見せないよう必死だった。
心配かけるようなことはできるだけ言わない、悟らせない。大事に大事にしてきた妹。

そんなメイちゃんの前で、精神的な発作を起こしてしまった。

「こいつ、起きたら…………死のうとしたり、しないよな?」
「わからない。サキの存在意義はメイを守ることだ。こんな自分を知られたら、本当に壊れてしまうかもしれない」
「……」

そんなことはさせない、と言いたかった。
けど、断言できるだけの力が俺にあるか? 牧原の発作を前にして足がすくむようなやつが?

俺は奥歯を噛みしめ、牧原から離れた。

と、眠る牧原が小さくうなり、目を覚ます予兆があった。
俺は急いでカーテンで仕切られた隣のベッドへ身を隠す。今は会わせる顔がない。

「サキ、目が覚めたかい?」

カーテンの向こうで桜小路の、聞いたこともない優しげな声が聞こえる。
次いで、かすれた牧原の声がする。叫んだせいで喉がやられたのだろう。

「おにい、ちゃん?」
「気分はどうだ? 気持ち悪くはないか?」
「ちょっとだけ、頭が痛い」
「そう。もう少し眠ったら良くなるよ」

沈黙があって、牧原が身じろぎする気配が感じられる。

「お兄ちゃん。私、……やっちゃったの、かな?」
「ちょっとだけ、な。大したことじゃない」
「メイ、いっぱい泣いてた。私が、泣かせたの。サトシも、怒らせちゃった」
「サキ……」

とつとつと呟く牧原の声は、ひどく危うい。
そのまま消えてなくなってしまいそうで、俺は拳を握りしめた。

俺は、牧原が今まで築き上げてきたものを、すべて知っているわけじゃない。
けれど、牧原が鋼鉄の壁をつくることに、どれだけこだわってきたかは知っているつもりだ。

牧原、お前、いなくなったりしないよな?

「私、本当はずっと、知られたかったのかもしれない。メイやサトシに、あなたの知ってる牧原サキは、本当はものすごく醜くてどうしようもない人間なんだって。たとえそれで軽蔑されても、嫌われても、一人になってもよかった」
「メイやサトシはお前を嫌ったりしないよ。どんなお前でも受け入れてくれる。それはお前が一番、わかってるはずだ」

いさめるような桜小路のことばも、牧原は受け流す。
彼女にしては珍しく饒舌だった。

「前に、お兄ちゃん、言ったよね。〈お前が選べ〉って。あの意味が私にはわからなかった。私には選ぶものなんてなくて、いつも目の前にあるのはひとつだったのに。でも、…………あの人が、教えてくれた。私にも選ぶことができるんだって」
「……佐藤スグル、か?」

自分の名前がでたことに、体がびくりと反応する。
この状況で牧原が俺のことを話すはずがないと思っていた。

「先輩はこんな私でも変われるってことを教えてくれた。変わらなきゃいけないってことを悟らせてくれた。そのためには、私自身が動かなきゃ。このままじゃ駄目なんだ。変わらなきゃ。……スグル先輩のそばにいるには、変わらなきゃ。そう思ったら、今の自分が我慢できなくなった」

意を決した彼女のことば。

自分がそんな大層なことをしたとは思えない。むしろ、ひどいことしかしなかったはずだ。
それでも、牧原は変わろうとしている。

―――俺のそばにいるために、変わろうとしている。

「お兄ちゃん、お願いがあります」

カーテンの向こうで、桜小路に向かい合う牧原の声が急に改まる。
なんだ、と桜小路が問えば、はっきりとした発音でそれは紡がれた。

「例の件、進めてください」

桜小路が息を詰める。

「……だけど、あれは」
「お願いします」
「後悔、しないのか? …………わかった。進めよう」

よくわからない会話のまま、無言の空間が数分続いた。
俺は出て行きたいのをどうにか我慢していたが、ついに桜小路の声がした。

「もういいぞ。サキは寝た」

投げやりな合図にそっとカーテンを開いて牧原を見る。
彼女はさっきまでの緊迫した調子を失い、また静かに眠っていた。

「さっきの、どういう意味だよ?」
「お前には関係ない、って言えたら楽だけどね。必要ならそのうちサキから話すだろ。それまでは待ってなよ。今からのお前は待つしかできない。……サキが、自分で動くと決めたんだから」
「意味、わかんねぇよ」

桜小路はやけに疲れた様子だった。牧原を見つめるその目には、ずっと先のことが映っているようで。
相手はそれ以上、なにも説明する気がないようだ。俺は状況の歯がゆさに苛立った。

牧原が動く、その意味。

それは俺をどうしようもなく不安にさせる。
まるで今まで掴んでいたと思っていたものが、するりとこの手をすり抜けどこかへ行ってしまう、そんな感覚。

牧原はそれからもこんこんと眠り続け、桜小路は今日のところは自分の家に連れて帰ると言った。
この状態の牧原を自宅に帰すわけにはいかないという。
心配してやってきたメイちゃんが家に連れて帰ると言ったけど、桜小路と頭山に説得され、なんとか諦めてくれた。

桜小路に付き添いを申し出た俺も、あっさり断れる。
しぶしぶ保健室から出ていく俺を、桜小路が呼び止める。

「佐藤スグル」
「チャラ男の次はフルネームかよ。なんだ?」
「お前はどうなんだ? サキの傍にいることが、お前にできることなのか?」

大げさだと思った。
でも、こんな姿の牧原を見せられた後なら、それが大げさなことばじゃないことはわかる。

俺は息を吐きだし、目を上げた。

「くだらねえ。俺のいるとこが、牧原サキの居るべきとこなんだよ」

自分で言って赤面しそうになる。それを隠すように扉を閉めた。
どうも駄目だ。牧原以外の前であいつの話をすると、どうも調子がよくない。

「あー、さっさと戻ってこいよ」

お前がいない世界はちっとも楽しくない。






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