そのに映るモノ 第8話-@




― side スグル


牧原が発狂事件を起こして、三日が経った。

あれから牧原の姿を一度も見ていない。
メールも電話もいっさいの連絡が取れない。そもそも学校に来ていないらしい。

食堂に行けば、元気のないメイちゃんがいて、頭山に見つかっては睨まれる。
どう考えても、あいつは牧原が狂った原因が俺にあると思っていやがる。あいかわらず、むかつくやつだ。

でも、メイちゃんのそばにはいつも頭山がいるのだから仕方ない。いま、情報源は妹のメイちゃんしかいないのだ。
頭山の目を盗んでこっそりメイちゃんに状況を訊けば、

「サキちゃん、家にも帰ってないんです。たぶん、善ちゃんとこにいると思うんですけど。電話くらい、くれたっていいのに」

いつになく覇気のない声が、彼女自身の八方ふさがりを告げる。

もちろん、桜小路の薬局にも行った。案の定、追いかえされたけど。
「待ってろ」の一点張りで、牧原の情報をなにひとつ教えはしなかった。

俺にできるのは〈待つこと〉だけ。

こんな面倒なことがあるか? 自慢じゃないが、俺は生まれてこのかた、なにかを待ったことなんてない。
いつだって欲しいものは自分で手に入れにいった。そして、手に入れてきたんだ。

「……牧原。お前、いま、どこにいる?」

一郎からの遊びの誘いを断って、まっすぐ自宅に帰る。
この三日、なんの変化もないローテーションの日々が続いてる。いい加減、もう飽きた。

一人暮らしの部屋は広い。いや、前は狭い狭いと思ってたんだ。
牧原をたまに連れ込むようになって、部屋の端っこにちょこんと座るあいつが小さな空間を埋めていた。
どんな女が我が物顔でベッドを占領しようと、邪魔に思ったことしかない。

なのに、あの希薄な存在がどうしようもなく貴重で。
一瞬たりとも目を離してはいけないような気がして、俺はいつも端に座るあいつをベッドに引き上げてやりたくなった。

「はあ……、さっきからあいつのことしか考えてねえ」

一人でいると同じことしか思い浮かばなくて困る。
制服からスポーツジャージに着替え、今晩の夕食を買うため、近くのコンビニに出掛ける。

と、財布を手にした時、玄関のチャイムが鳴った。

隣かと思ったが、二度目のそれはやっぱり我が家だ。
俺の家にたずねてくるやつはあまりいない。一郎ならチャイムなんて鳴らさず、ドア越しに俺を呼ぶ。

セールスかと危ぶみ、ドアのスコープから外をのぞく。

「っ」

目に入った人物に、俺は焦ってとびらを開けた。

「牧原!」

とびらの向こうには全身ずぶぬれの牧原サキが立っていた。

水を滴らせた前髪から黒い目をのぞかせ、俺を見上げる。
紺色のワンピースは水気のせいで黒く変色している。

「なに、してんだよ。なんで、そんなびしょ濡れ……」

あぜんとしながら牧原を眺めまわす。その後ろでどしゃ降りの雨が降っていた。
俺が帰ってくるときには降ってなかったってのに。

「……すみません。傘を持ってなくて」
「とにかく上がれ。そんな格好じゃどこにも行けねぇだろ」

部屋のなかに引き返そうとする俺の手を、牧原が掴んだ。ひやりと冷たい指先が俺の手首に触れる。
おどろき、相手を見れば、いやに真に迫った牧原の瞳があった。

「先輩、シャワー貸してくれませんか?」
「はあ? そりゃあ、そんな雨に打たれてりゃ最初っからそのつもりだけど」
「いいえ。雨が降ってなくても、シャワー、貸してもらうつもりでした」
「……牧原?」
「今日、泊めてください。スグル先輩」

長い沈黙だったと思う。
気付いたら、雨音に混じってシャワーの音が響いてた。

俺はとりあえず考える前に、脱衣所にジャージとバスタオルを置きに行く。
擦りガラス越しに見える等身をにらみつける。

正直、俺は怒っていた。

三日も連絡を絶っていたかと思えばひょっこり現れ、突然、押しかけた上に泊めてくれ?
シャワー貸してもらいに来たって、そういうことだろ?
そりゃあ、あいつを快楽で落としたのは俺だけど、男の家に押しかけて事を迫るようなビッチにした覚えはねえ。

つーか、あんだけメイちゃんや俺に心配かけといて、最初にやることがそれかよ。

「……なに考えてんだよ」

俺の出したジャージを着て、風呂から出てきた牧原にそう言ってやった。
不機嫌であることは伝わっただろう。牧原はなにも言わない。
部屋には雨の音とテレビの雑多な音だけがあった。

「お前、自分がしてることわかってる? 家にも帰ってねえってな。メイちゃん、すごく心配してたぞ。お前がああなった原因が家にあることはわかるけど、連絡くらいとってやってもいいだろ」
「……メイに連絡をとるわけにはいかなかったから」
「なんでだよ?」
「……心配かけたくなくて」
「心配かけてんだよ、現に! メイちゃんにも頭山にも、俺にもな!」

怒鳴り声とテーブルを叩きつける音がひびく。無意識だった。
牧原は小さく震えたけど、顔を逸らしたまま突っ立って動かない。いつもみたいに謝りもしない。

俺は奥歯を噛みしめた。握りこんだ拳が痛い。
今までで最高に牧原の考えてることがわからない。

怒りよりも悔しさよりも、―――むなしかった。

「なに、考えてんだよ。お前……」

あんなことがあってからの三日間、もうずっと気が狂いそうだった。
なにもできなかった自分とか、牧原への恐怖とか、もう永遠に会えないんじゃないかって苛立ちが、ずっと俺を苦しめてほとんどパンク寸前だ。

どんなに考えても、牧原のことがわからない。

シュッ、と布の擦れる音が聞こえた。
歪めた顔を上げると、突っ立った牧原が着たばかりのジャージを脱ぎ捨てている。

突然のことに反応せずいると、下着姿になった牧原がベッドに座っていた俺のところまでくる。
なんのつもりだ、と問う前に、牧原は俺の手をとって自分の胸元に当てた。

「っ、止めろ。今はそんな気分じゃねえ」
「私はそんな気分ですよ、スグル先輩」
「ふざけんな。俺はお前に腹立ててんだ。これ以上は無神経にもほどがあるぞ」
「ふざけてません。今日、……今日、先輩に抱いてもらいたいんです」

本当なら顔を赤らめて、やっとこそ言わせるようなセリフを、今日の牧原は真顔で告げる。
胸元に当てられた手を振り払う。顔をそむける。

今日の牧原は変だ。発狂したせいで根本的な性格までおかしくなっちまったのか?

それでも、牧原は俺の前に立ってことばを続ける。

「たった一度の我がままです。今日じゃなきゃダメなんです。今日、スグル先輩に抱いてほしい。これですべてを終わらせるために」
「終わらせる? 終わらせるってどういうことだ?」
「スグル先輩、お願いです。私を抱いて」
「おい」

牧原は俺のことばを無視して、肩を押してくる。
強制的にベッドへ横になれば、下半身に馬乗りになってくる牧原。

肌を重ねなければ知ることのない、牧原の香りが鼻をくすぐる。
苛立っているはずなのに、牧原が近くにいるだけで反応している自身が憎い。

牧原は俺の心臓に手をついて、見下ろすようにささやく。

「今日だけでいい。誰でもない、―――〈牧原サキ〉として私を抱いてください」

そこで初めて気がついた。
表情ない彼女の、その瞳だけが泣きそうに揺らいでいることに。

「……」
「……」

俺たちはしばらく見つめ合った。いや、睨み合っていたと言ってもいい。
こんなに何度も抱き合っているのに、まるで初めてみたいに相手の腹を探っている。

俺は深いため息を吐きだした。これ以上、頑固な牧原がしゃべらないことはわかっていた。
牧原のむき出しの腹部に手を添えて起き上がり、位置を入れかえ押し倒す。

「優しくなんか、できねぇぞ」

泣きそうな瞳が、ほんの少し微笑んだ気がした。






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