そのに映るモノ 第9話-A




― side サキ


数年ぶりに見つめる母親の瞳は、深いブラウンのきれいな輝きをしていた。
それは、いつも鏡越しに見る瞳となにも変わらない。

「今日かぎりで家族としての縁を、切ってください」

目を見開いたまま、固まった母親の表情。
私は待った。彼女がことばを紡ぐのを、ただ待った。

「な、なにを言ってるの。なにを、馬鹿なこと……。あなた、わかってるの? わ、私が積み重ねてきた苦労を、全部、無駄にしようっていうのよ? そ、それを、そんなことを」
「私は、桜小路善の養子になります。親戚の関係は消えませんが、牧原の子どもではなくなる」

瞬きひとつ、そして目を上げる。

「―――牧原サキは、この世から消えます」

これが私の出した、ひとつの答えだ。


●●●



うり二つの双子だった、私とメイ。
私たちは二人で話し合って両親の呼び名を変えた。メイは「ママ、パパ」、私は「母さん、父さん」。
メイとお揃いのものは大好きだった。だけど、それとは別に、自分だけのものを欲していたんだと思う。

小学校に上がって、呼び名を統一しようと言い出したのは、私だった。

「お母さん、お父さん」

メイと同じ呼び名で両親を呼ぶことで、妹の後ろに隠れる術を身につけた。
もうその頃には、私にとって両親は遠い存在になっていたんだろう。

彼らはメイの母親であり、メイの父親だった。

では、私の両親は?
私の居場所は本当にここなの?
疑問は、浮かび上がる前におもりをつけて沈めた。深い海の底で二度と浮かび上がってこないように。

水底で身を縮めていた私を、引き上げてくれたのが、あの人だ。


佐藤スグル。


先輩は私に新しい場所をくれた。それは同時に、二つの場所に存在できないことを教えた。
だから、私は選ぶ。どちらかしか取れない選択ならば、私はあの人のそばにいたい。

そのために、私は〈牧原サキ〉をやめる。


●●●



母親の強張った顔の肉がひくひくと痙攣する。
握りこんだ手は今にも振り上げられそうに震えていた。

「よ、よく考えたことね。善を使って、私に仕返ししてやろうって魂胆でしょ? あなたたち、似た者同士だものね。他人を嘲笑って、まわりなんかどうでもいいって顔して、そろって私を馬鹿にする」
「お兄ちゃんはそんな人じゃないです。いつも、あなたのことを気にかけていた」
「うるさい! 今さら、あの子の憐れみなんていらないのよ!」

振り上げられた拳に、ぎゅっと目をつぶる。でも、どれだけ経っても痛みは降ってこない。
そっと目を開ければ、涙をこぼす母親がいた。

「どうして……、どうして、だれも私を理解しないのよ。私は少しも間違っちゃいないのに。毎日、我慢して生きてきたじゃない。みんながどれだけ善を愛しても、その分だけメイを可愛がってきたじゃない」
「……」

頬を伝い、無造作に床へ落ちていく涙を、素直にきれいだと思った。
そう。私を産んでくれた人は、こんなにも純粋できれいな人だった。

純粋だからこそ苦しめた。
私が卑屈に策を練って、メイの後ろに隠れるたびにこの人を傷つけていた。

「どうして、あんたなんか産んじゃったのよ。メイだけならなにも考えずにいられたのに。あの時、生まれてきた時に殺しておけばよかった。あんたなんか、産みたくなかったのに! もういいわよ、どうにでも好きなところへ行きなさい! 二度と、顔を見せないで!」

それだけ叫ぶと、母親は私に背を向けた。
これを〈勘当〉というのだろうか。そう願ったのは私なのだけど。

「部屋にある荷物は処分してもらってかまいません。戸籍上の手続きは、お兄ちゃんがしてくれるので。……あの」
「さっさと行きなさいよ! もう声も聞きたくない!」

それ以上、なにかを言うことはできなかった。私にできるのは、今すぐにこの家を出ていくことだけ。
すでに、ここは私にとって〈他人の家〉なのだから。

…………。

でも、これでいいんだろうか。
こんな風に出て行って、私はあの人の所へ帰れるんだろうか。

違う、と思った。

流れに任せて出ていくために、スグル先輩を怒らせたんじゃない。
このまま〈牧原サキ〉を捨てた私を先輩はどう思うだろう。

そう考えたら、立ち止まらずにはいられなかった。

リビングを出る間際、振り返る。母親は背を向けたまま、肩を震わせている。
開いた唇は、それでもすぐにことばを紡げず、何度が開いたり閉じたりを繰り返す。

言わなきゃいけない。ずっと、ずっと言いたかったことばを。
すべてを終わらせ、最初からやり直すために。


「母さん、産んでくれてありがとう」


廊下に出てドアを閉めるや、リビングから泣き叫ぶ声が大音量でひびいた。
とびらにもたれかかると、肺から汲みだすような深いため息が出る。

これで、終ったのか。

すべてを終えてみると、なんだか事態は呆気がなかった。
いままで自分が抱え、悩んできたことはなんだったのだろうか。

本当はいつだってどうにかできたのかもしれない。
たった一度でも歯向かう態度をみせたり、もう嫌だと投げ出したりしていたら、もっと早くになにかが変わっていたのか。

それでも、私にはいま、この時が必要だった。

「サキちゃん……、今の話、どういうこと?」

大粒の水滴を目元に溜めて、メイがふらふらとこちらへやってくる。
私は倒れ込むように自分の分身を抱きしめた。

「メイ。これからいろんなことが変わるけど、大事なことは変わらないよ? 私とメイは世界でたった二人きりの双子の姉妹。いつだって、だれに出会ったって、私の一番はメイだよ」
「サ、サキちゃん、いなくなっちゃうの?」
「この家にはもう居られない。でも、学校には今まで通り行くし、お兄ちゃんのところでならいつでも会える」
「そんな……。でも、でも……」

私の肩に顔を押しつけ、首を横に振るメイ。
触れ合う場所から伝わってくる優しい温もりに、私はやっぱり感謝した。

この世のなかにメイという存在を授けてくれた、すべてに。
私のそばに居てくれた、すべての時間に。

メイの額に自分の額を当てて、そっと目を閉じる。

「メイ、聞いて。これは一生の別れじゃないよ。私は母さんを恨んでないし、いつの日か、ちゃんと話し合える日がくればいいと思ってる。でも、今はちょっと離れなきゃ。離れて、一から始めなきゃいけないの。もちろん、新しく始める道にはメイだってサトシだって、母さんだって必要よ。今までとは少し違った形で、きっと必要なんだよ」
「……サキちゃん」
「メイ、大好き。世界で一番、大好きよ。だから、泣かないで。幸せになって。ね?」

おでこを合わせたまま、そう言いながらも私たち二人は涙を抑えられなかった。
悲しみとか、悔しさとか、愛おしさとか、ひとつの感情じゃ表せない想いの波がどっと押し寄せて、涙になって私たちの頬を流れていく。

扉一枚を挟んで、リビングの向こうで聞こえる悲痛の叫びも、きっといつか抱きしめてあげられる日が来る。
大丈夫だよって、母さんのせいじゃないんだよって、言ってあげられる日が……。

私たちはしばらくそうして泣き合って、お互いの涙を拭った。
私がこの場を去ろうとしても、メイはなかなか手を離さなくて。

二人で玄関に向かう。靴を履く間も握られた手は離れない。
立ち上がって、メイの真っ赤になった目を見る。私も同じような目をしているだろう。

「それじゃあね、メイ。また、学校で」
「……」
「メイ」
「サキちゃん、善ちゃんのところに住むの?」
「そうよ」
「あたしも一緒に」
「メイ。それはダメ。今の母さんにはメイが一番近くで必要だよ。メイは一人じゃない、サトシがいるでしょ?」

メイは黙りこくって、私の手に無意識に爪を立てた。
彼女だってわかっている、世界における自分の立ち位置を。

私が離れるのは母さんだけじゃない。
双子の妹であるメイからも、離れる必要があるんだ。それもメイはわかってる。

メイの上目遣いの瞳がこちらを見る。

「善ちゃんのところ、遊びに行ってもいい?」
「いいよ。当たり前じゃない」
「……うん。じゃあ、うん。わかった。今日は、今日はまたねって言うね」
「うん。またね、メイ」
「またね、サキちゃん」

手が離れた。

私は玄関のドアを開け、振り返って微笑んだ。
メイもまたいつもの笑顔を無理やりつくってみせる。

そこから一気に家を出る。少しでもためらうといけないと思ったから。
その頃には、リビングからの叫び声はもう聞こえなかった。




こうして、私は、……ううん、何者でもない〈サキ〉という人間は、牧原の家を出た。

「遅い」

私の口からため息がこぼれると同時に、飛んできた声にびくりと体が跳ねる。
まさか、と思った。聞こえるはずのない声の幻聴を聞いたのかとさえ考える。

でも、その人はそこにいた。
少し不機嫌そうな顔。

「待たせ過ぎ。俺を待たせるなんていい度胸じゃんか。サキのくせに」
「……ぁ、せんぱい」

目の前の視界がじわりとにじむ。
スグル先輩が困った風に、泣くなよ、と言った。

「なんで、……なんで、ここに?」
「バカじゃねぇの。そんなん決まってんだよ」

先輩の手が玄関口に立った私にむかって、まっすぐに差し伸べられる。

「遅いから迎えにきた。―――来いよ。俺のそばに、居るんだろ?」

震える手でその手に触れる。
ぎゅっと握り返される手は大きくて、温かくて、また目が真っ赤になるまで泣く羽目になった。






back-banner   gallery-banner   next-banner   

レンタルサーバ