そのに映るモノ 第9話-B




― side サキ


私はスグル先輩に手を引かれ、どことはなしに住宅地の間を歩いていた。
先輩がどこに向かっているのかもわからないし、どこに着こうとかまわなかった。
歩調はひどくゆっくりで、先輩は私が泣きやむまでなにも言わずに待ってくれている。

「それで、結局、どうなったわけ?」

ようやく涙がおさまって話せるようになると、先輩はなんでもないことのようにたずねてきた。
だから、私もなんでもないことのように答える。

「お兄ちゃんの養子になりました」
「げっ! ……マジ?」
「マジ、です。聞いてませんか?」
「聞いてねえよ。桜小路もなんも言わねえし。えー、マジかよ。お前、〈桜小路咲〉になんの?」
「そうですね。実はもう今日の朝には役所に届けてあるので、正式にはすでに〈桜小路咲〉です」

その事実が気に食わないのは、先輩はしきりに嫌そうな顔をして不満の声をもらす。

牧原と離縁し、お兄ちゃんに無理を言って養子にしてもらったことを後悔はしていない。
世間的にも快く思われるとは考えていないけれど、スグル先輩にそこまで否定されるとは予想外していなかった。

しかたないとはいえ、少し複雑な思いになる。うつむき加減で歩いていると、急に先輩がこちらを向く。

「だって、お前、それってあれじゃん」
「……なんですか?」
「〈桜小路〉を〈佐藤〉に変える時、いろいろと面倒だろ。だって、あの極悪鬼畜なやつが許可するか? 全面戦争じゃねえか。面倒くせえ」
「え? は? あの、先輩、それってどういう意味……」

私の戸惑いもスグル先輩の耳にはすでに届いていない。
〈桜小路善をどうにかしてあざむく算段〉が先輩の頭のなかで面積をとっていたから。

足を止めずにはいられなかった。
つないでいた手がするりとほどける。先輩は振りかえり、不審そうに眉を寄せる。

「なんだよ?」
「先輩。なんで……、どうして迎えに来てくれたんですか?」
「はあ?」

だって、おかしい。
私がスグル先輩になにも言わずに計画を進めていたのは、ちゃんとした自分自身になって先輩のそばに戻るため。
でも、それは先輩が許可する限りにおいての期間だ。もし、先輩が私を必要としなくなったり、邪魔と感じたならすぐにも去るつもりでいる。

それでも後悔しない。
スグル先輩は〈サキ〉という人間を見つけたくれた。だから、もうそれだけで……。

なのに、おかしい。
いまのことばはまるで、ずっとずっと先のことまで先輩にはわかりきっていて、その未来で私は先輩のそばにいることが許されているなんて。

ほどけた手を胸元でぎゅっと握りしめる。
うつむく私に、スグル先輩は深く息を吐きだす。

「お前な、あれだけ言ったのにまだ信じてないのかよ。〈好きだ〉って言っただろ。つーか、好きでもないやつのために待ったり、わざわざ迎えに行ったりしねえよ、俺」
「す、き? あ、あれは、そういう雰囲気だから言ったんじゃ……」
「はあ? なにを? 〈好き〉ってことをか?」

私が震えながらうなずくと、スグル先輩は大きく口を開く、が、途中で動きを止めてしまう。
苦々しく歪むその顔に、私がまた大きな失態をしたのだと気付く。

ふいに、離れていた手がぐいと引き寄せられた。先輩の整った顔がすぐ近くにあって息を呑む。

「サキ、あの時どう思った? 俺が、お前に〈好きだ〉って言って抱いた時、お前どう思ってたんだよ? これっきりだと思ってたのか? 母親と同じように、俺のこともすっぱり切り捨てるための良い思い出にでもしようって?」
「そんな! そんなんじゃ、ないです。私は、……うれしかった。すごく、うれしかったんです。初めて、先輩に触れられた時みたいに」

顔が赤くなるのが自分でもわかる。最初の頃のことなんて一生、言うつもりもなかったのに。
羞恥に染まる私を見て、スグル先輩はおどろいたように眉を上げる。

「あ? ……いや、初めての頃って。あれはお前、無理やりだったろうが」
「無理やりでも、私にとってはうれしいことだったんです。初めて、私を見てくれる人が現れた気がして」
「間違い、だったけどな」
「それなら、先輩が間違ってくれてよかった。間違いでもなきゃ、スグル先輩が私と出会って、こんなふうになってくれるはずなかっ……んぅ」

目の前に先輩の顔があって、口をふさがれる。とっさのことで目を閉じる暇もない。
スグル先輩の力強い瞳がはっきりと私を見てくる。

欲に濡れた瞳。求められている瞳。私が、そばにいたいと願う瞳。

「ふ……んんぅ、せんぱ……ここ、外」
「かまわねえよ。なんなら、そこら辺の公園で最後までしてやろうか?」
「っ……ん」
「バカ。うなずいてんじゃねえよ。襲うぞ」

呆れるように言われて、冗談だって今さら気付く。
真っ昼間の団地で強く抱きついて、顔を真っ赤にさせてる私は先輩の目にどう映ってるんだろう。

初めて空き教室で先輩に出会った日。
スグル先輩の声を聞いて、恥ずかしいことをいっぱい言われて、恐怖と羞恥に泣きじゃくった。

でも本当は、あんな風に無理やり体を開かれること、どこか望んでる私がいたって言ったら、また呆れられちゃうのかな。

体を離した先輩が、ぽつりぽつりと小さな声で話してくれる。

「一応、後悔してんだけど、俺。さすがに無理やりはなかったよな」
「いいえ。先輩に出会ったから、いまの私がいるんです。そうじゃなかったら、いまでも私はどこにもいない存在だった。形なんて重要じゃない。私、スグル先輩に抱かれて良かった」
「……あいかわらず、マイナス思考なんだかプラス思考なんだか」

頭をかいてため息をつく先輩は、それでも握った手を振りほどきはしなかった。
そんなことがすごくうれしくて笑ったら、ちらりとこちらを見た先輩にまた、バカって甘い声で怒られる。

「あー、なんか腹減らねえ? 昨日の夜からなんも食ってねえよ」

そう言って、スグル先輩は私の手を引いて近くのコンビニへ向かった。
買いこんだ朝ごはんを、朝早くてだれもいない公園のベンチに座って食べることにした。

先輩は三つ目のおにぎりに食らいつきながらたずねてくる。

「で? これからどうすんの? 実家にはもう帰らないんだろ?」
「はい。ひとまずは薬局の上のマンションに一室、借りようかと。あのビル、お兄ちゃんの所有物なんで」
「一人暮らし? 桜小路とは住まねえの?」
「自立、したいんです。ひとりでどこまでやれるか、自分を試してみたい。って言っても、金銭的にはまだまだお兄ちゃんに頼るしかないんですけど」

私の話に先輩は、ふうん、と言って首元を擦る。その様子がどことなく気のないように見えて……。
もしかしたら、こんな話、スグル先輩には興味のないことなのかもしれない。

なにか話を変えようかと思った矢先、先輩の大きな独り言が聞こえてくる。

「一人暮らしか……」
「先輩?」
「なあ、その〈自立〉っていつ終わんの?」
「……すみません。質問の意味が」
「いや、一人暮らしするとは予想してなかったからさ。桜小路と住むならしかたねえかと思ってたけどよ、一人暮らしすんなら俺とでもいいじゃねえかと思って」
「だ、ダメですよ!」

口に出した声は思ったよりも激しく否定してしまう。
先輩は不機嫌そうな顔で、なんでだよ、と問うてくる。

「だ、だって、そんなのダメですよ。それじゃ、自立の意味がありません。それに、スグル先輩と暮らすなんて迷惑になりますよ。そんなのできません」
「なんで迷惑なんだ?」
「だって考えてもみてください。もし、スグル先輩が他のすてきな女性と交際したとき、私がいると迷惑になる、かも……」

ありうるかもしれない未来を思うと、最後までことばをつむぐことができなかった。
しぼんでいく私の声に、聞いていたスグル先輩は大きく息を吐く。

「あのなあ、自分で言っといてショック受けるってことは、それだけダメになってるってことだろ?」
「……やっぱり、ダメですか、私」
「ちげえよ。勘違いすんな。もう、俺から離れるなんて無理だってことだよ。おんなじことが俺にも起きてんだ。それくらい一緒にいりゃあわかるだろ? だから、まあ、なんていうか、……そのうちまた、迎えに行くからよ」
「せん、ぱい」

それは私の都合良いように受け取っていいのだろうか。
だとしたら、すごくうれしい。また視界が水っぽく揺れる。

スグル先輩が手を伸ばして私の目元をなでてくれる。
今日泣きすぎだろ、って言って笑ってくれる彼がすごく素敵で、私は泣きながらほほえみ返した。



朝ごはんを食べ終えて、公園でまったり過ごす。通勤通学に人が通るにはまだ早い。
あと少しだけ、先輩とふたりきりの時間を過ごしていたかった。
あなたのそばにいると私はどんどん贅沢になっていって、自分勝手な我がままを言いたくなる。

「スグル先輩。私、聞いて欲しいことがあるんです」

会話が途切れた折に、私はそう切りだした。
先輩はうしろに手をついて、首をかしげてこちらを見つめる。私はその目に向き合い、ことばをつむぐ。

「私、医者になろうと思います」
「医者?」
「はい。お兄ちゃんの影響がないって言えば嘘になるけど、でもこれはちゃんと自分の意思でそうしたいって思ったことなんです。だれのためにもなれない私でも医者になれば、だれかを救える存在になれるんじゃないか。……って言っても、結局はこの世界に自分の居場所が欲しいだけなのかもしれませんが。私はやっぱり弱いんです」

うつむいてしまう弱い私。決心は固いつもりだ。それでも私はまだまだ弱いままで。
ふいに、頭の上に先輩の大きな手のひらが乗せられる。

「いいんじゃね? 弱くてもさ。強いやつだけが他人を救うとは限らねえんだし。……俺もお前に救われたわけだし」
「先輩が? どうして?」
「無意味に過ぎてた日常っての? そういうのがお前と出会ってから変わってんだと思う。一日一日が大切になって。ま、どっかのだれかが無断でいなくなったりしなければの話だけどな」
「ご、ごめんなさい」
「謝んなよ。必要、だったんだろ?」

でも、あのときはマジで鬱になったから今度はちゃんと相談しろ。
そう言って、先輩は触れるだけのキスをしてくれる。

これからだって、私はいつも悩むだろうし、何度も謝ってしまうだろう。
自分を変えるってすごく難しいことだ。だけど、たったひとつ、あなたのそばにいたいっていう気持ちだけはいつまでも変わらないと思う。先輩が許してくれるかぎり、私はこの人のそばにいよう。

だから、そのためにこの人のそばにいてふさわしい人間になりたい。
胸を張って、佐藤スグルという人間の隣に立てるようになりたい。

「スグル先輩」
「ん?」
「好きです」
「ふ。なに突然。つか、真顔かよ」
「ダメ、ですか?」

不安になって首をかしげてそう問えば、立ち上がった先輩は私の頭をなでながら言う。

「ダメじゃない。お前がきれいでびっくりしただけ」

つーか、俺もこれからのこと考えていかなきゃな。
スグル先輩は困った風にそう言ったけど、その口元は弧を描いていた。
手を引かれて立ち上がる。こんなふうに自然と先輩の隣に立てる日が来るなんて思いもしなかった。

いつか、大切な人ができて幸せを感じられたらどんなにすてきだろうと思っていた。
けれど、実際に手にしている幸せはそんな簡単なものじゃない。いろんなものを犠牲にしたし、永続的な保証なんてどこにもない。これが最善の結果だとは言えないのだろう。

それでも、私は胸を張って言いたい。
私が私になれて良かった。スグル先輩がスグル先輩で良かった。

「あなたに出会えて、良かった」

スグル先輩がやさしい目で私を見てくれる。
いつか、この幸せが脅かされることがあったとしても、あなたがこうして私を見てくれるならきっと大丈夫。
あなたを見つめることを許してくれるなら、きっと大丈夫。

「サキ」
「はい」
「俺のそばにいろよ」
「はい」
「もう勝手にどっか行ったりするな」
「はい」
「悩んだときは何でも話せ」
「はい」
「サキ」
「はい」
「愛してる」
「―――はい」

ずっとあなたのそばにいます。あなたの瞳に私の姿が映るなら。


―――そのに映るモノ (完)






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