なきみ A



「そいつ、なに!?」

授業、終わりに開口一番、叫んだおれは果たした男らしかっただろうか。
あんまり考えない方がいいような気がするので、結論は保留とする。

生徒がそぞろに帰り、人気のなくなった大教室でおれはソラの机に手をついた。
帰りの準備をしていたソラは驚いたように見上げてくる。

「ああ、龍志」 「『ああ』じゃねぇよ! こいつ、なにもんだよ! さっきから人の女にベタベタ触りやがって!」

噛みつきそうな勢いでソラの隣を見れば、金髪ホストは不敵に笑う。
うわ、間近で見るとますます嫌味な美形だな。顔じゃ勝てる気しねぇ。

でも、ソラはもうおれのもんだ。元カレかなんか知らんが、今さら出てきてベタベタ触んじゃんねぇ。

「なにもんって言われても、さっきメールしたじゃん。元カレのカオル」
「元カレってお前、例の…………ああ、もう! ちょっとこっち来い!」

おれはソラの手を掴み、教室のすみっこへ連れていく。

「なによ、急に。どうした、そんな焦って」
「どうしたもこうしたもあるか! 本人の目の前で『例のセックスが下手くそな元カレですか』、なんて訊けるわけないだろ」
「ああ、そういえばそんなことも言ったね」

ソラは『今、思い出しました』みたいな風に手を打った。
こいつ、本当にわかってるのか。今の状況、元カレと今カレと一人の女で修羅場ってんだぞ?

「どういうつもりなんだよ、お前。言っとくけど、ソラの彼氏はおれなんだぞ?」
「そうだよ? そんなの言われなくてもわかってます。えっちだっていっぱいしてるのに」
「ぐっ、上目遣いが可愛いっ……じゃなくて! おれで遊ぶな!」

にやにやと笑うソラは、完全におれをおもちゃ扱いしてやがる。
普通の女の子が恥ずかしがること、嫌がること、すべてソラには通用しない。

それどころか、こっちが弄ばれてんだから世話ないよな。

「ねぇ、お嬢?」

収拾のつかない押し問答を遮ったのは、やけに色気のある金髪ホストの声だった。

お嬢?

「話ならどっかカフェでも入ってしない? そうだな、お嬢の好きなクレープがある店がいいね」
「ホント! やった、カオルの奢り」
「もちろん、奢らせていただきますとも。大事なお嬢のためだもんね」

立ち上がった金髪ホストは、なんでもないことのようにふわりと笑う。
言われずともソラのカバンを手にとって、喜び勇むソラの腰に手をまわして階段を上がる。

「きみもどう? 今カレくん」
「なっ……あ、あんたなぁ」

おれのことなど敵とも思っていない、余裕ある男の笑みにイライラする。

「龍志も行くでしょ? カオルの連れてってくれる店、どこも絶品なんだよねぇ」
「……い、行きますよ。行きゃあいいんだろ!」

自分の彼女が他の男、それも元カレとデートに行くところをみすみす見逃せるか。
おれは脳天気にクレープを楽しみにするソラについて、金髪ホストの高級車が案内する店へ行くことになってしまった。


●●●



連れてかれたのは、カフェと言っても若者には敷居の高いヨーロッパ風の洒落た店だった。
周囲はいいとこに勤めるビジネスマンや金持ちの奥様方、外国人のカップルなどが座っている。

そこに金髪ホストと男前女子大生、それにぱっとしないおれの組み合わせは、どうしようもなく浮いていた。

「うわぁ、おいしそう!」

めずらしく黄色い歓声を上げるソラの前に、平皿にのせられたアイス付きクレープが置かれる。

ナイフとフォークで食べるクレープなんて、おれは見たことがなかった。
なんか、おれの知ってるクレープと違う。金持ちのクレープってこんななの?

慣れない環境にどぎまぎするおれとは対称に、ソラの隣に座った金髪ホストは優雅に足を組んでコーヒーを傾ける。
おれは雰囲気にのまれ、怒りや苛立ちなど当の昔に引っ込んでしまった。恐る恐る、金髪ホストに声をかける。

「あの、カオルさん、でしたっけ?」
「うん、そう。ああ、名刺渡すの忘れてたね。はい」
「あ、ども」

スーツの上着からさらりとさし出された名刺を受け取る。
うわ、やっぱりホストだった。

黒い名刺に刻まれたホストクラブの名前と、『カオル』という源氏名。

「ちなみに『カオル』は本名だから。気軽に呼んで」
「そう、ですか。あの、おれ」
「リューシくんでしょ? お嬢から聞いてるよ」

カタカナ呼びされた名前は、ソラから聞いたという。
ソラからおれの話を聞くような間柄なのか? いや、ソラが別れ話のおれの名前を出しててもおかしくないか。なにせ、この人はソラの……。

「元、カレ……っていうのは?」
「本当。俺とお嬢はお付き合いしてたから。ねぇ、お嬢?」

ソラはフォークごとクレープを口に頬張り、こくんこくんと頷く。
こいつ、クレープに夢中でたいして話聞いてないだろ。

信憑性のないソラの肯定に、じと目を返すおれ。

「ふふ、疑ってる? なんなら、ここでお嬢とキスしようか? あ、それはだめか。今カレくんの前だしね」
「……おれの前じゃなくてもキスは勘弁して下さい。ソラはおれの、か、彼女なんで」
「へぇ、好きなんだ? お嬢のこと」
「そりゃ、まあ」

ふぅん、と薄笑いで探るような目を向けられ、居場所に困る。
ソラと言えば、いまだクレープに夢中でこちらの会話は興味がないらしい。

「それで、その、今日はどういったご用件で?」
「お嬢に会いに」
「……」
「嘘じゃないけど、嘘。そんな嫌そうな顔しないでよ。今日はお嬢の彼氏がどんなやつか見に来ただけ」

つまり、『俺の女を奪った男がいかようなものかを見に来た』と。
おれ、ケンカ売られてんのか? ならば受けて立とう。顔では勝てなくても、ソラが好きなのは負けやしない。

ケンカ腰に背筋を伸ばしてふんぞり返ったおれに、カオルさんはくすりと笑うだけだ。

「でも、まあ、お嬢が惚れるのも当然といえば当然なのかな。悔しいけど、きみが俺にないものを持ってるのは事実っぽいね」
「それって、ソラからは完全に手を退くってことですか?」
「でないと困る?」
「当然です。負ける気はしませんけど」

言い切ったはいいが、膝においた手は汗でびっしょりだった。
それでも探りの視線がおれを見る。おれも負けじとにらみ返す。

「勝ち負けなんてないよ。カオルは大好きだけど、龍志は愛してるから」

カラン、と音が鳴る。
空っぽの皿の上にフォークとナイフが転がったのだ。

おれとカオルさんが目を向けると、ソラはナプキンで丁寧に口元を拭っていた。

「お嬢、そう言い切られるとさすがの俺でも寂しいよ? 俺はもういらないの?」
「どうして、そうなるの? 龍志さえいてればいいなんて言ってないでしょ? 龍志は誰よりも愛してる。だけど、龍志にカオルやみんなの代わりはできない。カオルはカオルじゃなきゃダメなんだよ」
「お嬢はずるいなぁ」

そう言いながら、嬉しそうに頬を緩ませるカオルさん。彼の手がソラの頬を優しく撫でる。

なんだ、これ。ソラのやつ、現役ホストまで落とせるのか。
ソラの口説きスキルに呆れを通り越して、一種の感嘆すら思う。

同時に、ほんのちょっと、本当に少しだけ安心した。
自分ではカオルさんに負けるわけにはいかないと思っていても、やっぱりソラの口から直接、おれを選ぶことばを言われると嬉しい。

「あの、さっきから気になってたんですけど、『お嬢』ってのは?」

カオルさんはソラのこと『お嬢』なんて芝居かかって呼ぶけど、もしかしてソラってその筋の家柄なんじゃないだろうな。
…………ありえる。おれ、ソラがなんとか組の一人娘とかでも全然、驚かない。

おれの質問にカオルさんは少し困った顔でソラを見る。

「う〜ん、別に深い意味があるわけじゃないけど、いわば敬愛の象徴? そう、俺のお嬢に対する愛は『敬愛』なんだよ」
「え、でも、やっちゃって……」
「ああ! ストップ!」

そこで突如、ソラが大声で中断を切りだした。
びっくりするおれとカオルさんを、ソラは珍しく焦った様子で誤魔化そうとする。

「えっと、なんだ、そう! カオル、もうすぐ出勤じゃないの? 時間、やばいんじゃない?」
「いや、今日は同伴ないから、もう少しゆっくりできるけど。……お嬢?」
「ううん、絶対まずい! 時間ない! ほら、急いで行った方がいい!」

ソラに肩をぐいぐい押されるカオルさんは不思議そうに首を傾げ、ソラを見た後、おれを見た。
それから、数回、瞬きをすると、ふっと微笑んだ。

え、なに? その悟った顔は、何なんでしょうか。おれ、まったく掴めてないんだけど。

ふいに、店内に響く電子音。おれの携帯が着信を知らせる。
このタイミングで? まだ聞きたいことあんのに。

「うわ、サークルの先輩。出なきゃまずいじゃん。あの、カオルさん! また話、聞かせてください! 今度はもっと詳しく!」
「はいは〜い、また今度。お嬢がいない時にでも」
「なっ、ちょっとカオル!」

おれはカオルさんに短いあいさつをして、店の外へ出た。
怒鳴り散らすことで有名な先輩の電話に、こんな静かな店内で出るわけにはいかない。

カオルさんはひらひらと手を振って、残ったコーヒーに手を付けていた。
ああいう、余裕があってカッコイイ男になりたいもんだ。

ソラの元カレどうこうよりも、純粋な憧れを抱かせる不思議な人だった。


●●●



「お嬢、嘘はよくないなぁ。敬愛する相手に手なんか出せるわけないでしょ」
「しかたないじゃない。そうでもしないと、女として見てくれなさそうだったし。それにカオルと付き合ってたのは嘘じゃない」
「偽装でしょ? 変な男を連れてこないための予防線。もしくは、お嬢が惚れさせた女に流されないため、かな?」

店内の窓から、電話に向かって頭を下げる龍志の後ろ姿が見える。
残った二人は、席を外している彼には聞かせられない密談を静かに行う。

「お嬢から電話もらった時はビックリした。まさか自分から彼氏つれてくるなんて」
「私だって欲しいものくらいありますよ」
「…………いつかは手放さなきゃいけないものだよ?」

短い沈黙。

カオルの忠告にソラは答えない。
ソラはテーブルに両肘をついて、ジンジャーエールのストローを口に含む。

「で? 本当はなにしに来たの? 一緒に住んでるのに、『私に会いに』は通用しない」
「彼氏くんを見に来たんだ」
「…………」
「……わかった。嘘だよ、嘘」

ソラがじと目で見れば、観念したように両手を広げるカオル。
その手を下げると、美麗なカオルの顔に影がかかった。

「……あの人が、日本に帰ってきてる。お嬢にも会いたいって」

話題にあがった人物に、ソラの肩がぴくりと揺れる。
すっと細められた目は、ここではないどこかを見すえている。

「やっぱり、お嬢も会わなきゃいけない、のかな?」
「どうして、カオルが困った顔するの? 私とあの人の問題でしょ?」
「嫌なんだよ、あの人とお嬢が会うの。俺たちのためだってのはわかってる。でも、その度にお嬢は…………『ソラちゃん』は」
「カオル。時間だよ」

はっきりとした発音で名前を呼ばれ、カオルは唇をぎゅっと噛む。
それ以上はしゃべるな。暗黙的にそう言われているのを感じ取っていた。

少しのためらいがあって、カオルは席を立つ。
伝票に伸ばす手。そこへ、ソラの手が重なった。

「お嬢?」
「私だってわかってるよ。龍志はいつか手放さなきゃいけない時がきっと来る。それは絶対だ、絶対。でも、……きみたちは放さないよ。なにがあってもカオルたちと私の手は切れたりしない」

まっすぐにカオルを見つめる目は、あくまで力強い。
ハタチそこそこの女が見せる瞳としては、あまりにも世間を悟りすぎていた。

カオルはソラの手を反対の手でそっと離す。

「そしたら、お嬢が振られた時、慰めるのは俺の仕事だね」
「私が振られることが前提なの?」

いつもの調子に戻ったお互いにくすりと笑う。
それから、カオルは自然な動作でソラの手をすくい、手の甲にそっと口づける。

「あなたに生涯の敬愛を」

映画の一場面のような動作をやってのけ、カオルは伝票を手にその場を後にした。

カオルが店先で電話中の龍志と二言、三言ことばを交わす。
対照的な二人の男を眺め見ながら、ソラは口づけられた手をぎゅっと握り締める。

「本当の愛を知らないのは私だけ、か」

まぶしい太陽の光は店内まで届かない。
薄いガラス窓に遮られるように、龍志とソラの間にコントラストができる。

ソラの伸ばした右手は太陽の光をかすめ、龍志(ひかり)には遠すぎる。

「愛してるよ、龍志」

届かぬ手と同じくらい、ことばは虚しい。それは彼女自身が誰よりも知っていた。





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